探求と霊性修行

 前回の記事で「もし特定の御名と御姿の神仏に帰依したいと願うのならば、御教えの本質を理解できなければ難しいのですが、どんなに不可能に思えても、御教えをそのまま誠実に実践に移す必要があります」と書きました。そうです、歴史の評価に耐えてきた真の御教えならば、その御教えのとおりに実践に移さなければならないのですが、その本質を理解できないならば、実際のところ実践は思うように進みません。

 私が聞いたところによると、霊性修行(霊的な活動)の4分の3は探求だそうです。いったん御教えの本質を探求によって理解できさえすれば、あとはそれを生活に応用して実行するのですが、その実践が残りの4分の1に当たるような気がします。

 価値ある御教えであるならば、ある程度「深い」理解が必要です。表現された言葉の字面を読めるというのと、それが理解できるというのは別物で、また探求といっても知的な概念の理解だけに限りません。本質を理解できるというのは、腑に落ちるということで、それを生活の中でどう応用すればいいか見通しが立つということです。

 そういう本質の理解にたどり着くまでは、中途半端な理解で試行錯誤することも必要でしょうし、その試行錯誤が本質に導いてくれることも多々あります。試行錯誤しながら、それを日々振り返る作業=探求が、真摯な求道者に求められます。

 さらに、探求とは結局のところ自己探求に行き着くとされます。御教えの実践を阻む障害を取り除く作業も探求の一部ですが、その過程で自らの思い込みや偏見に時に気づきます。御教えに対峙することで自らに関する理解が進むのです。

 探求とはあたかもナイフで余分なものを削り取っていく作業ですし、霊性修行の目的は自らの浄化だとされます。霊的な道を歩む上で、識別心を伴った探求は欠かすことができないのでしょう。

 ただの一つであっても、御教えを完璧に理解して真摯に生きれば人生の目的は成就するとさえいわれます。