変容4

 令和になりました。世の中には今回の改元を新年に似た形で迎えた人が多くいると聞きます。私も5月1日に改元を記念して御宮参りをし、新しい時代の平和を祈ってきました。またちょっとしたお菓子を買ってきました。ほんの些細なことなのですが、新たな気持ちで改元を迎えることができました。

 今年の1月に新年を記念して変容について書きました。今回の改元の機会に、改めて変容について最近思うことを今日は書こうと思います。

 変容について次のような二つの軸を考えることができると思います。一つは、自己認識を含め物事を深めるという軸です。この場合は特に物の見方が変わってきます。もう一つは、知識をスキルに変える、つまりいろいろなことができるようになるという軸です。この2つ、認識面と行動面はどちらも大切に思うのです。

 自己探求を主題とする霊性の領域に限らず、普通の学問や知識に関しても、理解が深まれば、それまでとは異なった世界が目の前に開けてきます。目に見えるものが変わってくれば、感情も変わってきますし、感情が変われば、それに伴う行動ひいては生活に変化がもたらされます。

 一方、知識はただ知識に留めておく限りでは単なる頭脳の重荷でしかありません。もし口から取り入れた食物が胃腸で消化されなければ、体全体に栄養は行き渡りませんし、その場合食物は単なる体の荷物になるばかりです。食物が栄養の形で身体に満ちるべきなのと同じように、知識もそれは身体に浸透、つまり「できる」ようになることが必要です。スキルになって初めて知識を学ぶ価値があったといえるはずなのです。子どもと大人の大きな違いは、いろいろなことができるかどうかです。何かができるようになることは成長といったほうが正確なのかもしれませんが、ある種の変容ともいえます。

 探求とそれの体得化は人の習慣となり、最終的には人格へと結実します。教育の目的は人格とされますが、別の側面から見れば、教育の目的は変容ともいえるわけです。いわゆる宗教心や帰依心は必要なく、それよりも変容のほうが好ましいという見解もあります。

 植物は種が落ちたところから成長をはじめなくてはなりません。日当たりのいい場所もあればそうでない場所もありますし、水が豊かであるところもあれば、乾燥しているところもあります。その状況に合わせて成長します。おそらくは、人間が置かれた状況に適応しながら、伸びることができる方向に臨機応変に伸びようとすることは、私は非常にすばらしいことだと思っています。というか、私自身はそのように生きてきたと思っています。人生において最初から恵まれた環境ではなかったので、それ以外に生きるすべがなかったといった方が早いかもしれません。適応による臨機応変さも変容の一種に思うのですが、どうでしょう? これは周囲を変えようとせずに、自分が変わるということです。

 変容を求める人に最も勧めたいのは自己探求です。自己探求が進めば、私の経験からですが、おそらくハートの内にある愛の泉に行き当たります。この愛の泉に行き当たりさえすれば、あとはその愛にしたがって生きるだけ。これ以上の変容はないはずなのです。

 人に変容は必要でしょうか? あるいは必要ないでしょうか? 実際には変容は何年何十年単位のゆっくりとしたものです。あせる必要は決してありません。心の内に聖なる不満を抱えている人が時にいますが、その人は実は変容の機会をうかがっている人といえるのではないかという気がします。一人ひとりが変われば、その集まりである社会も変ります。令和がよりよき時代になるかどうかは私たち一人ひとり次第であると思うのです。