愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

体は影

 

今日も「人を解放する心の使い方」について少し触れたいと思います。先週、先々週もこのテーマについて書きましたが、結局のところ、「人を解放する心の使い方」とは外界ではなく内界の促しに沿った心の使い方のことです。内界に関心のない人は内界の世界の豊かさに気づきませんが、実際のところそれは外界と比べてずっと豊かです。少なくとも外界よりは満足をもたらしてくれるものです。ただし慣れないと、真っ暗闇の部屋の中を物にぶつからないように歩くのに似て、多少の困難があるわけです。

 

私は思うのですが、基本的に各宗教が述べようとしているのは、人を束縛するのではなく人を解放に導く心の使い方についてでしょう。しかし現代においては、人を解放に導くべき宗教がテロを正当化するような用いられ方をしています。宗教自体に悪はなく、人がそれを悪の正当化に用いているだけなのですが、嘆かわしいことだと思います。この点、聖職者の責任は重大です。親は子どもがナイフを間違った使い方をしようとしたときにそれを正さなければならないように、聖職者は信者が宗教の教えを間違って用いようとすれば適切に正そうとするのがあるべき姿でしょう。聖職者が自らの説く教えの有効性を知っている場合にのみそれが可能ですが、現状はどうなのでしょうか?

 

先日おもしろい記述を見つけました。

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ある帰依者が神に尋ねました。
「あなたは私の中に、私の上に、私の下にいるとおっしゃいます。それなのに、どうして私を守ってくださらないのですか?」
神は答えました。
「私はいつもあなたの中に、あなたの周りにいます。外面的に私を探してはなりません」
その帰依者は尋ねました。
「あなたは本当に私の後ろにいらっしゃるのですか?」
神は答えました。
「私の影があなたの体です」(1998年4月22日 サティヤ・サイ・ババ

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www.sathyasai.or.jp

https://www.sssbpt.info/ssspeaks/volume31/sss31-16.pdf

 

 

神は遍在しているということです。人間を含めあらゆるものの存在の核であるといえます。私の気を引いたのは「私の影があなたの体です」という箇所です。例えば木が生えているとします。日中晴れていれば当然その木の影ができます。木が風で揺れれば影も揺れます。木が実在で影は実在ではありません。ならば「私(神)の影があなたの体です」という文は何を意味するでしょうか? (人間の)体は実在していないということです。そしてその(人間の)体が動くということは、神が動いているのに体=影が従っているということです。一般の人間の考え方ではこれは受け入れられないことかもしれませんが、もしこれを受け入れたとすれば、影は勝手に動き、それは自ら(エゴ=体が実在だと受け取ること)の企ての結果ではないわけですから、体を動かすことを目的とした人間の思考は急激に減ることでしょう。強いていえば、自らの肉体が影であることをいつも意識する、つまり体が動いているときは本体である神が動いていると理解する。本体と影の間にはなめらかな関係があるはずなので、それを邪魔しないようにする。心にはその程度の仕事だけを与えておけば十分だということです。エゴが全くなくなれば、このようなことも必要なく、ただ影は影として存在するのみでしょう。エゴがある間は、エゴが宗教を自らの正当化に用いないよう注意するのに似て、エゴが体の動きを自らの正当化に用いないよう注意するだけです。

 

思考がなくなるあるいは急激に減れば、お金を稼げなくなるかもしれません。求める地位も得られなくなるかもしれません。人との関係が十分に結べないかもしれません。しかしながら、これは人を解放に導く心の使い方の一つの帰結でしょう。解放というとき、何を解き放つのかということです。解放という言葉は、人が何かにがんじがらめにされていることを前提としています。以前も書きましたが、人をがんじがらめにしている最たるものは心=思考の束のはずです。思考が極めて減っていったとき、自らの人生がどのようなものになるのか? こういう冒険に足を踏み入れる人は極めて稀であります。