愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

宗教者は御名を伝えるべし

 

諸宗教が千年、2千年以上にもわたって教えを説いてきました。そして現在があります。諸宗教の関係者が千年以上にもわたってなした努力は大変なものだったでしょうが、現代の社会状況を見て、その努力の甲斐はどれくらいあっただろうかという思いはあります。大切なのは御教えを説き聞くことではなく、それを生活に取り入れることなのですが、それが十分にできていないのでしょう。

 

私の宗派は御名を大切にする宗派なのでわかるのですが、御名は数文字からせいぜい十文字程度で構成されています。御名を思い起こすのは非常に簡単です。御名には何もなさそうでありながら、その宗派の説くすべてがこもっているというのが私の実感です。一つの宗派の経典、聖典は分厚く何冊にもわたりますが、御名は軽やかです。The name will concretise the named.(御名は名付けられているものを具体化する。)人はお寺に行ったり、教会に行ったり、神社にお参りしたりするでしょう。そしてそこで教えを聞きます。すべての概念は御名と関係があります。御名と関係のない教えなどないはずだからです。インターネットにアクセスして求める情報を探すように、御名を思うことは自らの心に触れるその宗派の御教えへと案内してくれます。御名はインナーネット(心の中の世界)へのパスワードなり、パスポートです。

 

2つの世界があります。私たちが感覚で知覚する外界と、感覚を超えた内なる世界です。ほとんどの人は外界が真実だと思っているでしょうが、ある種の人は内界により真実味を感じます。私たちは生きることの衝撃を内側で受け止めるからです。御名は外界が真実であると思っている人にとっては空気をふるわす単なる音なのかもしれません。しかし内界を生きる人にとっては、唯一の心の支えであることもあります。必死に生きている人は何ページにもわたる教えを思い起こすことはできません。1~2秒で唱えることのできる御名にしがみつくしか生きていくすべのない人もいます。そういう人にとっては、感覚で知覚するこの世界より御名こそがより現実です。

 

仏教もキリスト教イスラム教も多くの宗派があるようです。しかし崇める御名は、例えばキリスト教ならイエスという御名一つでしょう。多くの宗派は多くの御教えを意味していて、御教えが人々を分裂させている現状において、すべてに共通の御名を大切にすることは人々を一つにさせてくれるはずです。一つの御名のうちに自分が生活に取り入れようとする御教えを見ればすむのですから。すべての宗教は大本では皆宗教の創始者の体現する善を説いてきたわけです。御名を大切にすることは、その原点を大切にすることでもあります。

 

もしかしたらですが、ある宗教の御教えだけに関心・信心があって、御名に関心・信心のない人というのは、結局のところ不信心の人であるのかもしれません。私などは宗教の創始者が説いたがゆえにその御教えを生活に取り入れようという気になりますし、誰が説いたかに関心のない御教えというのは、現代学校教育で教える道徳とそれほどは違いがないでしょう。

 

以上のようなことから、私は宗教者はまず何よりも御名を大切にしそれを伝えていくことが大きな務めに思います。人々の心に御名が安置されたあとで、さまざまな御教えを御名との関係の中で育むことができます。私は、御教えをすべて忘れてしまったとしても、御名さえ忘れなければ何も忘れていないに等しい、という見解をもつくらいです。御名が思いと言葉と行いに染み渡っていることは、その宗派の御教えを体現していることです。これは多少なりとも私が御名を大切にして生きてきた実感です。