愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

知識について

 

誰もがそれについてわかっているようで、しかしそれについてきちんと説明しようと思えば上手く説明できないもの。その一つに「知識」があります。知識とはすなわち知っているということで、一時的にかあるいは永続的に自らの存在の一部になっているもののことです。似たような言葉に情報がありますが、私の理解では情報は必ずしも知識ではないのですが、知識は情報として流通していきます。知識は情報を構成要素として形成されます。

 

私は一週間に一つブログの記事を書くのを習慣にしていますが、いつも一つのテーマについて書いています。各記事にはそのテーマに関する情報を含んでいますが、一つの記事を通して一つの知識を提供するように心がけています。それはそのテーマに関する概念の提供、あるいは読んでくださる各人がそのテーマに関する概念を形成するきっかけの提供です。情報は素材ですが、知識は概念に関わります。素材は一本の柱で、概念は家です。

 

まず私自身が何かを知りたいと思った時、どういう作業を行っているか、そして何をもって知ったとするかについて述べます。私にはいろいろと関心のある領域があるのですが、どの領域に関しても知っていることより知らないことの方が多くあります。調べてすぐにわかることもありますが、わからないこともこれまた多いです。急を要しない限り疑問は疑問のまま放っておきます。かつては自分の頭で考えてすぐに結論を出そうと努力をしていましたが、最近はそういうことはしません。

 

私は瞑想を長い間習慣にしていますが、瞑想をしているとそれを目的にしているわけではないのですが、長い間わからなかったことに関する気付きがふと得られることがあります。あるいは日常生活において何らかの刺激や違和感に直面した際にある種の発想・アイデアが得られることがあります。そのような瞑想時の気付きや生活の中で湧いてくる発想・アイデアが私には大切です。例えばサンスクリット語には語根があって、それをもとにさまざまな単語が形成されているようですが、気づきや発想・アイデアはそのような語根に相当します。それをもとに単語=知識を形成します。

 

知識の形成の段階になって初めて頭=思考を使います。粘土細工をするように、気づきや発想・アイデアを核としてそれにさまざまな経験や情報を肉付けしていきます。私にとって思考は造形作業です。それによって概念が少しずつ形をとっていきます。その概念を裏打ちする経験が豊富であるほど、その概念は血肉化しているといえます。そうしてできあがったものが私にとっての知識になります。

 

これは私が知識を形成する際の一例ですが、知識社会といわれる現代社会においては知識を形成する能力は重要視されます。それは言葉や他の記号で表現されますが、ただ表現されるだけでは十分ではなく、それが何らかの形で社会・生活に落とし込まれる、つまり社会・生活の中で実現されたり応用されることが求められる、それが知識社会です。実現されるまでは知ったと主張できない可能性もあります。現代では経済や学問において差異化、差別化ということが求められますが、それはある知識が他と違って特徴が明瞭であるということなのでしょう。特徴が明瞭でなければ情報の海に埋もれて見失われてしまいます。

 

知識は文化をも意味します。文化とはそれに携わることで自らが純化される装置と考えることができますが、知識の形成とそれを社会や自らの生活で実現することは文化の同義語といってもいいものです。このような文脈で考えれば、知識社会は現代になって到来したのではなく、随分古くからある社会の実態です。自らが純化されるその行く先が人生の目的であって、必ずしも知識そのものは人生の目的ではないのかもしれませんが、それでも知識の重要性が減ることはないのでしょう。