差異について

 

先週はSAI(サイ)について書きました。今週は差異について書きたいと思います。この言葉は30年以上前から哲学や広告の分野でよく耳にしました。私は自分なりに理解しようとしたのですが、あまりよく理解できませんでした。最近たまたま経営学の入門的な本を読んでいて再びこの差異という言葉に出会いおもしろい定義に出会いましたので、触発されて差異について書くことにしました。哲学的に厳密なことを書くことはできません。感想あるいは経験から思い当たることを書くことになります。

 

『幸せの経営学』という本をブックオフで見かけて、パラパラとめくるとおもしろそうなので買ってきました。その中でイノベーションを説明する章の中に次のような差異に関する記述がありました。
「差異を生まない差異は差異ではない」(ウィリアム・ジェームズ)
この言葉は科学者であるための心得として彼が残したものらしいです。そして『幸せの経営学』の著者は、「差異を生まない(顧客から見てとるに足らない)差異は(実務的には)差異ではない」とコメントしています。

 

優れた概念は領域や分野を超えてさまざまに用いられるものです。この差異という言葉もそうなのでしょう。『幸せの経営学』は経営学の本ですから、顧客の視点から見ての差異を強調していますが、私はかつて哲学の本で差異という言葉を目にしたとき、ある2つのものの違い・狭間から、その違いは人の見解であったり、概念であったりですが、何かが生み出されることというふうに理解しました。そして差異を生み出すことが重要であると受け取ったのですが、実際のところ差異を生み出すにはどうすればいいのかよくはわかりませんでした。単に知的に理屈をこねるだけでいいのだろうかと思ったものです。経営学では顧客から見てとるに足らない差異は無視していいらしいのですが、知的に生み出された概念の差異も多くはつまらないもの、どうでもいいものが多いと私は感じていました。実際に私の若い頃から30年経って知性の分野で停滞が起こっているような気もしますし、私の見解はそれほど的外れではなかったはずなのです。

 

この差異という考え方をもとに、世間にオンリーワンという考え方も出てきたのではないかと思うのですが、それ自体は悪くはないのですが、単なる流行に過ぎず、個性を育むことは未だ達成されてはいない現状があるでしょう。私はそれほどではありませんが、こういう世相にわずかばかりは惑わされました。意図して個性的であるのは結構難しいことではあります。

 

個性のことはさておいて、「差異を生まない差異は差異ではない」の類比として「発想を刺激しない発想は発想ではない」という命題を考えることができます。あることを発想しても、それが他者の発想を刺激しないならば、それは発想という名に値しないわけです。つまり差異を考えるときには、他者に対する効果が経営学のみならず結構重要だということです。ただし概念が凡庸に見えても、状況によってはその概念を導入することが他者に効果をもたらすことはありますので、差異は必ずしも高い知性を要求するものではないのかもしれません。

 

ちなみにイノベーション(innovation)の語源はラテン語のinnovareのようです。その語義は「in(=内部を)」+「novare(=変化させる)」とされています。内部を変化させるのに、必ずしも最先端の技術や概念が必要とされているわけではありませんね。自らが受けた教育外のものにも自らの内部を変化させるものがあります。

 

例えばある集落で一人の人がインターネット販売を始めたとします。簡単で基本的であってもノウハウが導入されてそれが数100万円くらいの売上を獲得できるようになり、集落の人達に広まったとすれば、そのノウハウはその集落の人達にとっては差異を生み出した差異=真の差異であったといえるでしょう。テキスト=文章においても、多くの人がそこから多様な可能性を読み取れるものは差異を生み出す差異=真の差異といえるでしょうし、いわゆる古典というものはそういうものといえます。

 

ありきたりですが、自らの個性を発揮するのに最善な方法は、自らの体力、知力、感情、環境、人間関係などを正しく適切に活用することに尽きると思います。体力、知力、感情、環境、人間関係などは人によって異なっているので、それらを正しく適切に活用すれば、誰とも異なる状況、有様をもたらすことができます。差異という概念はおもしろい概念ではあるのですが、自らの能力と状況をあたりまえに活かして初めてそれを自覚できるようになる、私はそう思うのです。