心を生きる存在

 

日本語の人間は英語ではman、human beingです。サンスクリット語ではmanava(マ―ナヴァ)であり、これはmanas(マナス心)を生きる存在の意味です。manavaからmanという語が派生したのかは知りませんが、両者は似ています。人間として生まれてくることはこの上ない祝福・恩寵だと聞きます。動物や植物は命であり、その点では人間と変わりはありませんが、人間だけに許されていることがあって、それは取りも直さず心を生きることとされます。

 

私の見解を述べさせていただければ、人間は体と心とアートマ(真の自己)から成り立っていて、体は非真です。心も非真です。アートマだけが真実です。心は非真ですが、そうであってもそれが人間を特徴づけます。動物は80%程度は本能で残りは神性(仏性)だと聞いたことがあります。ほとんど本能に従って生きています。もしかしたら動物も自己意識があるのかもしれませんが、しかし自らを改善する、改めるということはほぼ不可能に見えます。一方人間は85%ほどは神性(仏性)で残りが本能だとされます。人間が特異な存在であるのは人間だけが過ちを改善できる余地があり、もちろん自らよい方向に進むことができるだけでなく、悪い方向に進むこともできます。

 

例えばある人が罪を犯したとき、その人は捕まって刑罰を与えられます。仮にその人が死刑になるとします。その人を殺すわけです。正確にいえばその人の肉体を殺すわけです。死刑でなくても、ある期間刑務所に入れられます。体の動ける範囲が制限されます。しかしよく考えてみればわかるように、その人の体が悪いことをしたのではなく、悪かったのはその人の心で、その心が肉体を動かしたわけです。人間に刑罰が与えられるとき、肉体に刑罰が与えられますが、実際には心が悪いことをしているのですから、心を改めるように仕向けるのが刑罰の本来のあり様です。法律のことは詳しく知りませんが、実際には刑罰にその人の改心・更生促す側面はあるはずです。しかし極悪人は死刑にしてしまえばいいという一般市民の論調には、改心・更生を促すという視点が欠けているように思えます。

 

人間が他の動物と異なっているのは知性と識別心だとよくいわれます。知性はアートマ(真の自己)から光を汲み上げ自らの心を照らす働きがあります。識別心は、心の善悪、是非をチェックします。こう考えれば、知性と識別心は人間が自らを改めるための道具であることが理解できます。人間だけが向上できるのであって、それに比較すれば動物は世界を経験・体験するだけの存在です。人間が一生の間、飲み食いや繁殖のことばかりにとらわれてわずかばかりも向上しなかったとすれば、その人は人間として生まれたことを無駄にしているわけで、むしろ動物として生まれたほうが誠実であったといえます。「人間は食べるために生まれてきたのではなく、生きるために食べるのです」といわれるのは真実です。

 

外向的な人というのはいますが、ある程度人は内を向いて内省の時間をとるのがいいと思います。心の通りに肉体が動いていることを理解して、心の改善が人生の改善であると受け取り、人生で起こることのすべてをそのための踏み石として活用する。人生とは心を生きることであって、心が清められ、昇華され、「なくなったら」人としての段階を卒業するのだとも思います。人生はinner journey(内なる旅)です。他人の心の内は完全にはわからず、自分の心を最もよく知っているのは自分です。なので自分の人生は自分が責任をもたなくてはなりません。そのあたりの自らの心に対処する技法が現代でははっきりしていないので迷う人が多いのでしょうが、もし私がそういう人に勧めるとすれば、瞑想や一日の終りにその日の行動の動機を振り返る習慣をもつこと、あるいは優れた霊性の文献を読むこと(そして少なくともいくつかを実践に移すこと)、祈りなどでしょうか。付け加えて良き仲間がいれば幸いです。

 

心を生きるのが大切であって、役割に応じた義務を果たすことや規律を守るという人間のある種の見かけ(ダルマ)は、人を保護する家のような働きをします。