愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

アートマについて

 

アートマとは真の自己のことです。アートマという言葉は日本では手垢がついていないので、各人の探求を変に阻害するところがないと思いますが、一方でとっかかりがなく何のことかわからないという面はあります。繰り返しになりますが、人間は肉体と心とアートマの組み合わせです。肉体と心は非真でしょうが、アートマは真です。アートマはくだけたいい方をすれば「私」「自分」のことです。アートマはこれではない、これではないという形でしか探求できません。もしこれがアートマであると指摘できるとすれば、アートマは私の認識の対象objectであって、私subjectから離れていることになるからです。なのでこれがアートマであると堂々と指摘している人がいるならば、その人はまったくの無知である可能性があります。

 

In order to realise the Atma, you have to cut the little I of your ego. This represents the sacred symbol cross. This is what Jesus taught. It is the feeling of 'I and mine' that is the cause of man's bondage. When you eliminate this feeling, what remains is your true Self. (2009.12.25 Baba)
(アートマを悟るために、あなたはエゴという小さなI(私)を切り刻まねばなりません。これが聖なるシンボル十字架の意味するところです。これがジーザスが教えたことです。人間の束縛の原因はI(私)とmine(私のもの)という感覚です。あなたがこの感覚を取り除いたとき、そこに残るものがあなたの真の自己です。)

 

この言葉に沿って考えてみます。I(私)とmine(私のもの)という感覚を取り除くとは、どういうことでしょうか? 私は日本人である、私は男あるいは女である、私は金持ちであるあるいは貧しい、私は聡明であるあるいは頭が良くない、私は結婚しているあるいは結婚していない、私は背が高いあるいは背が低い、私は太っているあるいは痩せている、私は老人である、中年である、あるいは若い。私はいい加減であるあるいは真面目である、私は思いつきで行動するあるいは思慮深い、などなど挙げればきりがないのですが、これらの類はすべてI(私)という感覚に付随するものです。同様に私の家、私の服、私の髪型、私のマグカップ、私の友人、私の兄弟、私の子ども、私の親、私のキャリア、私の預金、私の体、私の感情、私の感性、私の視力、私の心、などなどmine(私の)にまつわる事柄も挙げればきりがありません。つまりこれらの感覚を一切取り除いた時に残るものは一体何でしょうかということです。人によってはすぐにあるいは人によっては何度もくり返しこの作業をしていけば、いつか突如として気づきがやってきます。自分が思い描いていた自己像ではまったく無いかもしれませんが、何か気づきがあったときは、しばらくの間その気づきを大切にしてほしいです。

 

先ほどアートマはこうであると指摘することはできないと述べましたが、インドでは伝統的にアートマの属性はサット・チット・アーナンダ(存在・意識・至福)であるといわれます。アートマ(真の自己)はサット存在しているということ、つまり私は確実に存在しているという言明が第一です。アートマ(真の自己)はチット意識である、つまり何らかの主体感覚を伴うというのが第二の言明です。アートマ(真の自己)はアーナンダ至福として体験されるというのが第三の言明です。

 

私がある文献を読んだ時に、アートマを意識として受け取っている人がいました。アートマがサット・チット・アーナンダであるならば、この受け取りはあながち間違っていないといえます。例えば目をつむった時に、人によっては静かな平安な状態であったり、人によっては想念が乱れ散っている混乱であったりと、状態はさまざまでしょうが、その各人の内的状態を皆がそれぞれ理解しています。それは意識の光がすべてを照らしているからです。この意識の光はすなわちアートマの光でしょう。意識は確かにアートマなのでしょうが、ただそう主張する人に一つ問うてほしいのは、その意識はどの範囲に存在しているのかということです。目をつむったその頭部に存在しているのでしょうか? 意識は偏在なのでしょうか? あるいはそうでないのでしょうか? 

 

アートマはこれであると指摘できないがゆえに、アートマの理解を得るには自己努力に頼らざるを得ないのでしょうし、最終的には各人の気づきがその理解を支えるのだと思います。アートマ探求に役立つであろう文献を私はもっていますが、著作権の関係で不特定多数の方に今公開することはできません。アートマ理解を獲得したかどうかに関する判断材料の一つは、アートマはそれを知ることにより他の一切すべてのことを理解可能にする、ということです。アートマを理解したつもりになっていても何となく自分が無知蒙昧な状態であることをどうしても否定できないならば、アートマの理解に達していない可能性があります。学者的な緻密さ・厳密さでありとあらゆるものを理解するということではありません。ただ自分が確かに理解できているという感覚は必要です。

 

私がどれだけ確かなことを述べているかは何ともいえませんが、今日書いたことはわずかばかりはアートマ探求の役に立つのではないかと思います。