愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

インド3

 今週もインド(の原理原則)についてです。これも人から聞いたことです。
 
 「インド人にとっての父はパラマートマであり、母はサナタナダルマです。」
 
 インドにはパラマートマとアートマという似た言葉があり、それぞれが何を指し示すかによって同じものだと理解する人もいれば異なるものだと理解する人もいます。私は真の自己(アートマ)は遍在していると理解しているのでパラマートマと同じような意味にとらえています。パラ+アートマ=パラマートマですが、パラとは至高、最高のという意味のようで(サンスクリット語についてそれほど詳しくないので正確でないかもしれません)、簡単にいえば、パラマートマ至高の自己=実在としての至高神のようなものと受け取っています。
 
 アートマとパラマートマが異なるものとした場合、人間にはアートマは実感できても、パラマートマは決して理解できないという見解をもつ人がいます。
 
 父は人に規律を与えます。愛も注ぎますが、母の愛に比べれば少し知的な傾向を好むところがあります。
 パラマートマは人を育みます。父=パラマートマの性質を理解すること、すなわちアートマ探求は人の生涯の課題として意義あることですが、ある人々はそれは刃物の刃の上を歩くように非常に難しいといいます。アートマ探求は人にとっての最高の冒険ともされますが、その過程で人はもがき続けます。そう、アートマ探求の道は非常に厳しいです。
 人は、仕事先を見つけるために学校で知識や技能を学びますが、そのために最低9年長ければ20年近く学び続けます。アートマ探求は普通にそれと同じかそれ以上時間がかかり得ます。しかし私の感覚からすれば、おそらく未来の教育は20歳か少し越えたころにアートマ探求を達成することが目標とされるのではないでしょうか?
 自己(アートマ)探求は総合あるいは拡大です。部分にとどまることはありません。私というものが世界に溶け込むことです。厳しいでしょうが、達成し甲斐のあるもののはず。知能の遊びではありません。
 
 サナタナダルマはサナタナ(永遠の)ダルマのことです。時と場所を越えて普遍的な人間としての生き方のことです。一方その応用(実践)は時と状況に依存しています。人は日々正しく生きるよう努めることで育まれます。それは母が手取り足取り愛を込めて子どもを行為へ促すに似ています。たとえば、衣類を自分で着たり脱いだりできるように、トイレを自分でできるように、食事を自分でできるようになることが子どもの成長であるのと同じく、人はダルマの道を歩むことで成長の階段を上っていきます。こちらはアートマ探求に比べればほぼすべての人に理解されやすい道です。
 
 子としての振る舞い、配偶者としての振る舞い、親としての振る舞い、社会人としての振る舞い。インド人たちは母なるサナタナダルマの指針のもとにそれらの実践に励んでいます。
 
 たとえばナイフで人を傷つけることは普通は犯罪ですが、外科医がナイフで人の体を切って手術することは正しい行為です。ナイフで人を切るということが正しいか正しくないかは状況次第です。母なるサナタナダルマを信じる敬虔なインド人は、どのような状況においても、どう振舞うのが正しいかを熟慮した上で行動に移ります。
 
 父なるパラマートマと母なるサナタナダルマの養育を十分に受けたものは、アートマダルマ(アートマとしてのダルマ)を理解するようになります。たとえばインドの聖典バガヴァッド・ギータはアートマダルマについて述べた聖典とされます。