エネルギーの節制


お金を節制することはわかります。無駄なことにお金を使うことを避けることです。食物を節制することはわかります。肉体を維持するのに必要なものを食べ、食物を捨てないことです。時間の節制もわかります。時間は万人にとって等しく与えられていますが、それを不適切な用い方で無駄にしないことです。それに加えてエネルギーの節制があります。ここでいいたいのは、電気やガスなどのエネルギーの節制のことではなく、肉体・心に備わったエネルギーのことです。電気やガスなどのエネルギーももちろん大切に使うべきでそれは当然のことといえるでしょう。一方人間の肉体・心に備わったエネルギーを大切に使うことに関して、あまり意識していない人がいます。

 

「喜んでいる自分が私たちのありのままの姿です。嫌な考えをしたり、そういう言葉を発したり、惨めな気持ちになるには、多くのエネルギーが必要です。良い考えを抱き、前向きな言葉を口にし、良い行いをすればあなたの人生も容易になるでしょう。」(著者不詳)


どなたの言葉かはわかりませんが、上の言葉を見かけました。この言葉によれば、嫌な考えをしたり、そういう言葉を発したり、惨めな気持ちになるには多くのエネルギーが必要だとあります。更に考えてみてください。嫌なことを考えてもどれだけいいことがあるでしょうか? 嫌な言葉を発してどれだけいいことがあるでしょうか? 自然に沸き起こった感情なら短い時間でその多くが消えていくのですが、惨めな気持ちをわざわざ抱き続けてどうするのでしょうか? もし自分の欠点を指摘されたり、自分でそれに気づいた場合、欠点といったん受け取ってしまえば、あとはよくない感情や思いを手放すのがいいでしょう。しかしわざわざよくないことを考えたり、言葉にすることで多くのエネルギーを浪費しています。こういうケースはおそらく多々あると思われます。感情は空を流れる雲に似て、ある程度の間内的空間を占めているでしょうが、放っておけば自然に流れ去ってしまうものです。


霊性とは手に何も持たない状態のことでもあります。手に荷物を持って外出するとき、小さなものであっても手に荷物を持ち続けていると疲れるものです。手ぶらで歩くのは楽です。人にはそれぞれのこだわりがあるでしょうが、手ではなく内なる意識で何かにしがみつくことがあり、それは手に何かを持って歩き続けるように非常に疲れます。心に執着がなく心が手ぶらであれば気持ちはとても楽です。こんなことで肉体・心のエネルギーは消費されてしまいます。スマホの待機電力の消費がかなりの割合であるのに似て、人間はこのような精神的エネルギーの浪費によって少しずつ衰弱していきます。体力・エネルギーが有り余っている人はいいでしょうが、私は体が弱く、エネルギーを無駄に消費するとたちまち疲労困憊してしまいますので、このような精神的エネルギーの浪費に結構気を使っています。よいことを思ったり、言葉にしたり、行うことには実はそれほどエネルギーは使わないものです。それよりも悪い思い、言葉、行為の影響の方が大きいです。

 

私の性質もあったと思いますが、かつては嫌なことがあればグズグズと考えることがありました。それで何かが好転したということはありません。否定的な思考があっても、あるいは何かにこだわってみても、結局のところ状況はそう変わりません。むしろ否定的な思考や言葉の影響で運気が悪くなるのではないでしょうか? 私は今は運命論者で、人間の気持ちの持ちようで運命が変わることはほぼないと思っていて、例えば富に関しても富を得る人は得るだろうし、富を得ることのできない人は精神的なものを含めて努力で得られることはないと受け取っています。こういうように理解するようになって、私は随分否定的な思考や言葉が減っていきました。先程も触れましたが、病弱なため何とか肉体的・精神的エネルギーを節約したかったがためです。


付け加えれば、見るもの・聞くものに関しても注意を払っています。嫌なものを見たり、聞いたりすれば、嫌な気持ちになって、それが短い時間であっても不快であり疲労してしまうからです。かつては流行に従って音楽を聞くことはあったのですが、最近はクラシックでさえほぼ聞かないようになりました。テレビもほぼ見ません。インターネットは覗いていますが、可能な限り情報を選んでいます。体力・精神力は貴重なので余分なことで浪費したくないからです。人との接触に関しても、必要な場合以外に好んで人と会うことは減ってきました。何の楽しみがあるのかという人もいるかも知れませんが、衰弱してしまうよりはマシです。限られたエネルギーを肯定的なことに使いたいと思っています。ただ私は山歩きやサイクリングなどはしますが、確かに体力は使う一方精神的には充実してきます。


電気やガスなどのエネルギーだけでなく、人間に備わったエネルギー、特に精神的エネルギーにもっと意識的になってほしいと思うのです。年をとって衰えたときに悪習に支配されていたならば、老後はより悲惨なものとなってしまいます。