先週は思考の領域について書き、そこで内なる本質・エッセンスについても触れました。本質・エッセンスは思考(頭の動き)から容易に導き出せるものではないと私は思っていて、ならばそれを確保するには何が必要なのかということが問題になります。今日はそれについて書きます。
まったく頭脳を用いていないわけではないのではっきりと区別できるわけではないのですが、単なる思考とカテゴリーが異なる領域に自己探求があります。頭脳は思考しますが、ハートは思考ではなく探求しているといえましょうか、そういう領域です。私はそれはかつて触れたことのある理智鞘のレベルにあると今は理解していますので、ハートによる探求について書くことは理智鞘について書くことであり、それを踏まえたタイトルです。
事物の本質・エッセンスは人間に内在していますが、それが中々理解できません。しかし条件が整えばそれは「目」に見えてきます。木の中に火が宿っているように、牛乳の中にバターが宿っているように。木は強くこすると火を発します。牛乳はカードにしてから撹拌するとバターができるようです。人間のハートのうちには世界を理解する鍵が含まれていますが、それを取り出すには木をこすったり牛乳をかき混ぜるに似た作業が必要です。それはサーダナ(霊性修行、spiritual discpline, spiritual exercise)です。
サーダナとは具体的に、礼拝、奉仕、瞑想、神仏の御名を唱えること、マントラを唱えること、霊的文献の学習、感覚器官のコントロール、節制などなどの霊性の領域での基本となる活動のことです。人は自らの心を清めるため、人間として向上するためにこれらの行に取り組むのですが、これらは実際のところハートをかき混ぜる作業に相当します。適切に理解した上で誠実にこれらのサーダナを少しでも行えば、かすかとしても内的な変化をもたらすことができます。中国には「一口食べただけでは太らない」ということわざがあるようですが、それと同じように、着実で不可逆な変化を欲するならばある程度長い期間に渡る努力が必要となります。
詳しく知りませんが、本質論には2つの考え方があるようです。(事物に)本質があるという考え方と本質はないという考え方です。私の考えは、理智鞘のレベルから見れば本質はあります。しかしそれより上のアートマ(真の自己)のレベルから見れば、アートマ以外はすべて夢に似たもので実在性が疑われるものですから、本質はないといえます。インド哲学ではアートマは存在という意味をもちアートマはあるのですが、一方仏教ではすべては無とされます。仏教でいう無とはアートマの立場に立ったとき本質というものは存在しないという意味なのかもしれません。
最低限人間として生まれてきたならば理智鞘のレベルまでは確実に到達しておきたいと私は思っています。サーダナを多くの人に勧めたいです。