愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

SAI(サイ)

 

たまにこのブログにサティヤサイババの名前が出てきますが、私は彼の御講話や著書をよく読んでおり、また彼の御教えだけでなく彼御自身のことについて考えることがあります。今日は彼のこと、いえ正確には彼の御名の一つの意義について書きたいと思います。人は自らの真の自己についてすらよく理解していません。であるのにサイババのことを理解しようと思っても理解できるわけはなく、せめて彼が彼の名前について述べたことなどに関してわずかばかりの考察をするつもりです。サティヤ+サイ+ババが区切りです。サティヤは日本語では真理という意味です。サイにもババにもそれぞれ意味はあります。今日はサイという部分に関する一つの意義に触れます。「サイ」には多くの意義がありますが、すべてに触れることはできません。

 

サイババの周りに集まってくる人の多くは「サイ」を次のように用います。サイラム、サイクリシュナ、サイガネーシャ、サイブッダ、サイイエスなどなどです。サイラムsairamはサイ+ラーマのことで、サイクリシュナはサイ+クリシュナ、サイブッダはサイ+ブッダです。ラーマもクリシュナもブッダも人々に神あるいは聖なる存在として崇められています。つまりサイという言葉は神や聖なる存在の頭につけられることが多々あるのです。例えばサイクリシュナという場合、人はサイババがクリシュナの再来であると信じていたり、クリシュナの御教えであるギータとサイババの御教えは同じ一つの御教えであると信じていたりします。サイブッダやサイイエスも同じです。それぞれの宗教に従う人たちはサイババは自らが従う教えをわかりやすく説いていて、時の流れの中で干からびてしまいがちな本来の御教えに新たな視点や生命の息吹を与えてくれていると心から受け止めているわけです。サイババは、「ヒンズー教徒はよきヒンズー教徒になりなさい、キリスト教徒はよきキリスト教徒になりなさい、仏教徒はよき仏教徒になりなさい、…」といっていますが、彼はそのための手引をしていると受け止めることができます。サティヤサイババのことを中途半端に知っている人は、彼がヒンズー教徒あるいはインド人だと狭い理解をしますが、実際には世界中の多くの人たちがサイババは自らのことを最もよく理解してくださっていると受け止めており、それはクリスチャンでも仏教徒でもあるいはイスラム教徒でも同じなのです。時には無神論者ですら彼に強くひかれます。

 

彼は自らが新たな宗派を作りに来たのではないと繰り返し述べています。しかし悲しいかな世の中には自らが彼の代弁者であると主張して教団を作ろうとする人がいたり、無宗教者たちで彼の教えにひかれる人たちが、何か新しい宗派のようなものを意識的にか無意識的にか作ろうとしていたりいます。アメリカのヒッピーは根無し草のような存在だったのでしょうが、それに似て根無し草的傾向のあるいわゆるスピリチュアル好きがたまたま彼の周りに集まっていたりもします。日本の多くの人にサイババの名前が知られて30年弱が経ちますが、それらの人々の影響もあって、サイババは日本人にほとんど受け入れられないままできました。あくまでも人間関係の狭い私の個人的見解ですが、私から見てサイババを少しばかりでも理解している日本人は、日本に20~30人くらいなのかもしれないと思うことがあります。

 

かつてインドの人に聞いたことがあります。「すべての教え、すべての哲学が彼のものです」。すべての教えが彼のものであるとは、先に述べたように、サイババはすべての宗教の御教えが尊いものであるとされ、すべての人が自らの宗教に従うことを勧めていることから明らかです。サイババは何かの宗教が間違っているとか従うべきではないというようなことはいいません。哲学や思想についても同じことがいえます。彼はすべての文化を尊重していますし、すべての哲学や思想はもともとよい動機に促されて育まれたものであるがゆえに尊重します。サイババのことをとても新しく革新的だという人もいれば、とても保守的だという人もいます。彼が人間の真の自由を促進しているという人もいれば、彼は社会主義者だという人もいます。彼は特定の哲学や思想をけなしたことはありません。ある人が特定の宗教や哲学、思想が間違っていると主張するのは、その人の心に問題があると示唆しています。彼が「サルヴァマタ サムマター(すべての信仰を受け入れることのできる方)」だといわれているのは、このことを意味しています。


例えばある一人の人がいたとします。彼は特定の宗教を信じているかもしれません。特定の哲学や思想を大切にしているかもしれません。サイババはその宗教や哲学や思想が何であろうと祝福します。彼の大きな仕事の一つは人々を祝福することでもあるからです。サイババに関わることでその人が改宗の問題に直面することはありません。あるいはその人が抱く哲学や思想を否定されることもありません。私は真宗門徒です。真宗には、南無阿弥陀仏という御名に阿弥陀様の願行が備わっているという教えがあります。南無阿弥陀仏と唱えることで、阿弥陀様がすでに成し遂げられた願と行が我が身(私)に実現されるという信仰です。サイババからすれば、これは立派で正統な教えであり信仰です。どの宗教のどの教えも等しく正しい教えです。文明化した人間から見て土着に生きる人の原始的な信仰も、サイババは肯定します。

 

とはいっても世の中にはカルトの問題がありますから触れておきますが、不道徳的であったり暴力的な宗教や哲学、思想(とその解釈)には関わらないほうがいいと私は思っています。

 

サイババの前では、ありのままであればいいのです。自らの信じるところを生きればいいのです。サイババを信じなくてもいいのです。なのになぜサイババのことに触れるかといえば、サイババのことを知れば知るほど、自分の信じるところのものをより理解できたり、よりよく哲学や思想を発展させることができるからです。そして生活がよりよいものとなります。人々がサイラム、サイクリシュナ、サイブッダとサイをつけて呼ぶことの一つの意味はこのような肯定の内にあります。