心(マインド)のOS

 

久しぶりに心(マインド)に関することを書いてみます。過去書いたことをかなり忘れているので重なる部分もあると思います。お許し下さい。

 

心(マインド)が働く場合、今は思考が働くことを想定していますが、成人の場合はだいたいその人の思考パターンというのがあると思います。たとえばこのブログを何回か読んでくださっている方は、私の思考パターンらしきものを理解されているのではないでしょうか? 文体と思考パターンは一致するわけではありませんが、相関はあります。思考からまったく離れた論理の文章はなかなか書けないものです。つまり私にもある程度固定化した思考パターンがあるわけです。

 

自らを振り返ってみるに、多少なりともエゴがなければ思考はできません。私の見解ではエゴのまったくない人は無思考なのです。多少なりとも思いが湧いてくることはあっても、それが思考という体系に至ることはあまりないのではないかと思います。エゴは思考を起動させるものです。一種のOSです。少なくとも私はそうなのです。そして付け加えるならば、その思考パターンというものは常に過去のものです。過去の習慣が蓄積したものです。多分そこに開かれた未来はあまりないと思われます。現代人の行動はその人の思考とその傾向に基づくことが大半です。現代社会の混乱は現代人の思考の混乱を表現したものといってもいいくらいです。思考が適切にコントロールできてないわけです。

 

思考を変えることはできるでしょうか? 過去からの習慣は根強いものです。しかしながら思考のあり様が現代社会に反映しているとするならば、思考を変えなければ社会は変わりません。インドでは、思考(マインド)は束縛の原因でもあり、解放(解脱)の原因でもあるといわれます。エゴに基づいた思考、古くからの思考パターンは基本的に人を束縛します。それはせいぜい過去においては妥当であったとしても、現在においては妥当でないはずなのです。今日は以下2つばかり思考のあり様にわずかでも変化をもたらす可能性のあることを述べます。

 

人はインターネットを見たり、本や新聞を読んだり、テレビを見ます。そういうものを見ていろいろと思いが湧き上がりますが、その湧き上がった思いを思考の材料とします。多少はいいでしょうが、あまり適切ではない思考方法です。それよりは、ある程度長い時間歩いて、その間に整理された思いの方が自らの生活に密着し大切な場合が多いと私は考えます。私はこの過程を歩行禅として大切にしています。思考を他者(諸メディア)に委ねるのは好ましくないわけです。

 

もう一点。心(マインド)はサンスクリット語でマナスといい、それに関連してマナナムという言葉があります。英語ではrecapitulationと訳されるようです。日本語訳は、要約すること、要点を繰り返すこと、反芻することなどです。私が理解する範囲でわかりやすくいえば、たとえば手紙を受け取り読むときに、相手のいいたいポイントを理解する作業をします。飾りはあまり重要ではありません。それと同じで、例えば何かを聞いたり、読んだり、見たときに、ポイント・要点に集中すること、それがマナナムです。今の時代は頭を使うといえば頭を回転させることと受け取っている人が少なからずいますが、本来の頭(マインド)の機能は要点理解、要点整理ではないかと私は思っています。

 

人を束縛せず解放させるマインド(心)の使い方についても思うことはありますが、長くなるので今日は触れないでおきます。