「ブッダは6年の長きにわたり苦行をしました。ある日ブッダは目を開けて、泥棒を捕まえたといいました。泥棒とはだれでしょう? 心(マインド)です。ブッダは、心(マインド)こそすべての苦しみの原因だと気づいたのです。心(マインド)をコントロールすれば、決して苦しむことはないでしょう。」
お釈迦様は苦しみの問題に取り憑かれていましたので、お釈迦様にとって苦しみの原因が心(マインド)であるということは、心(マインド)が人から喜びや幸福や平安などを奪い去るものであったわけで、その文脈で心(マインド)が泥棒であると主張されているのでしょう。人に苦しみをもたらすものの正体を突き止めたわけです。人が何かの問題に取り憑かれているとき、その問題の原因を突き止めることは大きな前進です。お釈迦様が王宮から逃げ出したのは20代の終わりで、悟りを開いたのが35歳ころだとされますから、お釈迦様が泥棒を捕まえたことは画期的なことであるといえます。
お釈迦様と比べても仕方ないのですが、私も最近泥棒を捕まえました。私がいうところの泥棒は、お釈迦様が捕まえた泥棒とは少しばかり異なります。私が捕まえた泥棒は、人生を奪い去ってしまう泥棒のことです。つまり、貴重な人生の時間をつまらないことに浪費させてしまう原因となるもののことです。その正体は、端的にいえばエゴとそれを前提とした欲望のことです。このブログでは何回か書いているのではないかと思いますが、エゴとは肉体を自分と同一視することによってもたらされた心の一つの傾向のことです。そしてそれを前提とした欲望とは、肉体を楽しませることを目的としてさまざまな意図をもつことです。
今年はあまり時間をとることができなかったのですが、私は山の中を歩くのが好きで、物を考えるというか、物思いにふけりながら自然に触れるのが好きなのですが、登山者が一日に何十人といるような山でなく、一週間に10人も歩く人がいるかどうかというような道を好むところがあります。道はあるのですが、落ち葉が多い時期だと人の踏み跡がはっきりしなくなることもあるようなそういう道です。そういう道では、時に野生動物の気配を感じることがあります。シカやイノシシです。クマの噂があるところも少しばかり歩きます。そういうような人気(ひとけ)があまりない自然の中にいると、自分の姿というものが結構あらわになるものです。自然は一つの鏡であって、自然にどっぷり浸っていると、知らなかったものを含め自分の姿が立ちあらわれてきます。私にとってはそれが学びになるわけです。私が泥棒を捕まえたというとき、そういう山歩きを通して得られた自分の姿のことをいっています。
私は一人で歩くことが多いので、自分のことを知るきっかけが得られますが、他人のことをよく知るために、人をキャンプに誘う人もいると聞きます。人と1度山歩きを共にすることは10度街中で会って話をするほどに濃密であるという人もいます。人をより知りたいときには山歩きやキャンプに誘うのもいいでしょう。
それはさておき、私が捕まえた泥棒であるエゴと欲望。それを一度に取り除くことは難しいのですが、紐に縛り付けて柱にくくっておくことくらいはしないといけません。さもないと、インターネットの前で長い時間を過ごしたり、ショッピングセンターで長い時間を過ごしたり、パズルゲームで時間を浪費したりなどという悪習を根絶できません。多少の気分転換は必要でも限度というものがありますから。時間の浪費は人生の浪費です。この今の人生を無駄にしてしまってはなりませんもの。
お釈迦様が泥棒と呼ぶ心(マインド)。だれもが心(マインド)に振り回される傾向を持っているでしょうが、おそらくお釈迦様は心(マインド)の全貌を掴んだのだと思います。全体像を理解したのだと思います。それを手懐けるきっかけを手にしたのだと思います。私も泥棒であるエゴを捕まえたと主張するなら、多少なりともそれをコントロールできなければなりません。人生を泥棒に奪われたままにしておくのを許してはなりません。どうすればいいかという対策は少しばかりあります。それに沿って地道は努力を重ねていくしかありません。