愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

愛の道

 

先週は変容について書きましたが、より良い方向に人が変わることは少なくとも停滞ではなく前進でしょう。また。束縛がある人はなかなか変わることができないはずです。変容は人が解放へ向かっていることだと私は受け止めています。そして今日も「人を解放する心の使い方」について述べたいと思います。

 

まずは人間として生まれることについてです。人間として生まれることは稀な恩恵だといろいろな方面から聞きます。私は輪廻転生を普通に何の抵抗もなく受け入れることのできる人間です。舞台上で劇を演じていた人が舞台が終わったあとに楽屋で休憩するように、人は死ねばあの世で休憩するものと思っています。そしてまた生まれてこなければならない魂は再びこの世に生まれてきます。だから私は死ぬことが怖くありません。むしろ再び生まれてこなければならないと考えることのほうが怖いです。この世に生きることはある種の苦痛だからです。この世を卒業したいという気持ちはあります。とはいっても、心の片隅にまだ満たされていないこの世的な欲求が少しでも残っているうちは再び生まれてこざるを得ないのでしょう。

 

生物学における進化論とは別に、輪廻転生においても無機物、植物、動物から人間へと進化していきます。無機物、植物、動物と比べて人間はどういう位置づけなのでしょうか?人間は克服されなければならないといいます。私の理解では人間から神性・仏性へと上昇しなければならないということです。これはどういうことを意味しているのでしょうか?私が思うに、この世つまり地上での生活を謳歌するには無機物、植物、動物に生まれるだけで十分ではないかということです。自然を観察すればわかりますが、植物、動物にはさまざまな種類のものがあり、それぞれの種ごとに生き方が異なります。植物、動物に何度も生まれることでありとあらゆる体験ができそうです。食欲、性欲なども十二分に満たすことができるでしょう。この世的なことに関しては、あくまでも憶測ですが、人間は動物・植物以上に何かを味わえることはないような気がしています。動物・植物でさえ徳を積むといいます。その徳の結果として人間に生まれてくるといいます。それでは人間として生まれることにどのような意義があるのでしょうか?

 

人には欲望、怒り、嫉妬、執着、憎悪、傲慢などなどの悪徳があります。それらも過去動物や植物としての過去生において得られたものでしょう。一方で多少の徳があり、一方で多少の悪徳があります。人間は、それらを完全に取り除くことができるかどうかはわかりませんが、それらの悪徳を乗り越えること、それらの悪徳をある程度無害なものとすること、それらの悪徳を昇華し前進のための踏石とするために存在するのかもしれません。過去の無機物、植物、動物としての生(それは徳と悪徳にあらわれていますが)を総括する、それが人間の人生のように思います。

 

端的にいえば、人はただ愛の道を選択する決意をするだけです。愛をもって思い、愛をもって語り、愛をもって行為する。人生の旅はさまざまな障害に満ちており、与えられた能力、スキル、富を用いれば大抵のものは乗り越えられるのでしょうが、そうであっても人が障害に押しつぶされてしまうのは内なる悪徳のせいでしょう。人が人生の旅、愛の道を歩むのを妨げる最大のものは欲望、怒り、嫉妬、執着、憎悪、傲慢などなどです。愛の道を歩む、人生の旅をするには、自らに与えられた能力、スキル、富などと同時に、種々の悪徳という欠点を理解することが必須です。そのように自らを理解することに心を用い、愛の道を歩む方向に意志を向けること、これは一つの「人を解放する心の使い方」です。

 

欠点といえば欠点なのですが、私は他の人に比べわずかばかり感情が貧しく、あまり愛について語ったり、ことさら意識的に愛の道を歩む努力はしてきていません。しかし多くの人に勧められているのが愛の道です。私がブログで書いているようにいろいろなことを考える必要はありません。愛は究極の目的だとされています。ただし愛とは何だろうくらいは深く考えていいでしょう。この世的な愛執、愛着のことでないことは私ですらわかります。