愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

理智鞘3

 先週に引き続いて五つの鞘の内の理智鞘についてです。先週の補足のような感じです。


 五つの鞘とは、食物鞘、生気鞘、心気鞘、理智鞘、至福鞘のことです。この五つをある面からわかりやすく説明すれば、無機物・鉱物は食物鞘だけからできています。鉱物はいわゆる呼吸をしません。植物は食物鞘と生気鞘からなっています。体とエネルギーからできています。動物は食物鞘と生気鞘と心気鞘からできています。動物は移動しますので頭脳(心気鞘)の働きが発達しています。人間は食物鞘と生気鞘と心気鞘と理智鞘を生まれつき操ることができるとされます。人間と動物の違いは知性にあるといわれることがありますが、五つの鞘の用語で言えば、理智鞘が人間を特徴付けています。人間がこの世界において進化の頂点にあるとされるのは、理智鞘まで到達しているのが人間だけだからです。


 その人間もさらには至福鞘に向かって進化を進めなければなりません。食物鞘、生気鞘、心気鞘、理智鞘、至福鞘の五つが開発された存在は神的存在、(人間から見た場合の)超越的存在のことです。人間がこの方向を目指すことは自然なことであり、人間の存在理由ともされます。仏教は解脱のことに触れていますが、解脱が人間の目指すべきものであるというのはこの文脈においてです。解脱という言葉を用いなくても、たとえば自己実現や自己の解放という言葉も、自らの本質である至福を実現したり、真の解放による「自由」=至福に到達することを意味します。お釈迦様は涅槃=至福の状態に達した方ですし。人間の肉体をまとったときにだけこの状態を目指すことができるとされます。


 識別についてさらに触れておきましょう。
 私は必ずしもそれを意識して生きてきたわけではないのですが、振り返ってみるに識別を鍛えるのにとても役立ったことがあります。それは真理に沿って生きるよう最大限の努力をしてきたことです。ここでいう真理とは思いと言葉と行動の一致のことです。思いと言葉と行動を一致させようと努めることで、どういうことを思うべきかあるいは思うべきでないか探求してきたし、どういうことを語る(書く)べきか語る(書く)べきでないかと言葉を選ぶことに慎重になってきました。実際に行動に移すためには、生活においてどのような前提が必要かなど自らの置かれている状況に関しても人一倍考えてきました。思いと言葉と行動の一致とは簡単にいえば嘘をつかない、自分を裏切らないということなのですが、ただこの一つを心がけることで、識別というものが非常に鍛えられます。


 いつも実行できないようなことばかり言っているとしたならば、自分に関する分析力、統合力が決定的に欠けているということでしょう。思っていることを言葉に出せないとしたならば、思いの良質さに自分が追いついていないか、あるいは逆に食べるものや見るもの、聞くもののせいで心=思いが汚染されていて、それを表に出せないのどちらかです。これらを避けるために、生活のかなりの部分を見なおしてきたのは確かです。他にも方法はあるでしょうが、識別を鍛える方法の一つに今いったような真理(=思いと言葉と行動の一致)の追求があります。


 かつてこのブログで、文化とは識別の束であると書いたことがあります。単に伝統文化を楽しみ模倣することだけが文化的生活なのではありません。文化とは生き方のことであり、それは生活のあらゆる面における判断の繰り返しですが、その判断とは識別のことです。頭を使わなくても体に染み付いてしまわなくてはなりません。この意味で、理智鞘を開発するということは、文化的生活を送るということともいえます。


 幾人かの批評家が「日本には文化がなくなった、日本人は動物的に振舞っている」と警鐘を鳴らすのを読む機会が過去にありましたが、それはとりもなおさず、理智鞘の開発を怠り、心気鞘のレベルで生きている、つまり動物と同じ程度に満足しているということです。理智鞘の開発は、人間としての進化に沿ったものであると同時に、文化の復興という面もあります。ですので、現代日本においてとても重要な課題だと思っている次第です。