浄土・極楽

前回、魂の力に関連してCIA(constant integrated awareness)のことに触れました。いつも意識に満たされていることの自覚です。そういう状態にある人にとって、そのような状態はある種浄土系仏教のいう浄土・極楽のようなものではないか、あるいは仏教から外れてキリスト教の天国、ヒンズー教のヴァイクンタやカイラサのようなものではないかとふと思い、今日はそのことについて少し書いてみます。

 

仏教ではそれぞれの仏様にそれぞれの仏国土があるようで、特に阿弥陀様の仏国土を浄土・極楽というようなのですが、私の今の立場からいえば、どの仏国土も等しく素晴らしいもので、ただ阿弥陀様の仏国土はその理解されうる姿がよりはっきり記述されているという意味で卓越しているように思えます。私の今の立場とは、CIAの状態を基準にものをみる立場であり、CIAの状態は誰にとっても等しいような気がするからです。以下法蔵菩薩の48願をいくつか取り上げてこのことをみてみます。

 

「たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」(第1願 無三悪趣の願)

CIAの状態においては、環境の力は魂の力に比べてほとんど無力です。魂は意識であり至福でありsatchidanandaと呼ばれているものです。地獄の苦しみや餓鬼はありません。しかし私のようなレベルの人間は、今だ空腹を感じれば食事を求めるので、そういうレベルの人は空腹に思うことはあるでしょう。またCIAは人間にこそ可能であって、人間以外の動物が到達する境地ではないでしょうから、畜生はいません。

 

「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、ことごとく真金色ならずは、正覚を取らじ」(第3願 悉皆金色の願)

CIAにおいては意識が身体に浸透し満ち満ちています。真金色の真とは混じり気のないということで、金色とはまさに金に匹敵するということでしょう。金から多くの金の装飾品が作られますが、それらはすべて金が形をとったものです。CIAにおける身体はかなりのことをなすことができます。身体は一つでも可能性は多大です。そういう風に受け取ることはできます。また当然のことですが、意識が浸透している身体は非常に価値のあるものです。

 

「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、乃至不善の名ありと聞かば、正覚を取らじ」(第16願 離諸不善の願)

不善の名とは、私の手元の資料によれば「好ましくない言葉」の意味のようです。つまりCIAの状態にあるものは、よくない言葉を口にしないということです。外界に意識の焦点があたってないのですから、好ましくない言葉どころか、そもそもあまり言葉を語らないように思います。

 

「たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人ありて、わが名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を嫌悪せん。寿終わりて後に、また女像とならば、正覚を取らじ」(第35願 女人往生の願)

女性は一般に厳しい修行に向いてないだろうということで、宗教・宗派によっては低くみるものがありますが、実際のところ女性の肉体の制限と男性の肉体の制限は少しばかり違いがあったとしても、それがどれだけ本質的なのだろうかという思いがあります。第35願は一般に肉体嫌悪の人について述べていると受け取れなくもないのですが、仮に女性だけに焦点をあてた願だとしても、CIAの状態に男女の違いによる制限はないでしょう。女性であろうと男性であろうとCIAの状態にはまっている人は再び生まれる可能性はなさそうな気はします。

 

「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、仏を得るに至るまで、諸根闕るして具足せずは、正覚を取らじ」(第41願 聞名具根の願)

諸根闕るとは、眼耳鼻舌身意が不自由である、つまりいわゆる障害者ということです。霊性の道を歩む上で健康が非常に重要であるのは確かなのですが、菩提心をもってCIAの状態を求めるのが障害者に無理だということはありません。また健常者と障害者の意識に違いがあるというわけでもありません。意識の汚れはサーダナによって除去でき、サーダナ次第です。

 

48願の内のいくつかについてCIAに関する見解を述べました。私の論は屁理屈のようなところもあるかもしれませんが、私の見解では、CIAに関しては肉体にまつわる属性はほぼ意味をなさないだろうということです。他の48願についても述べれなくはありません。阿弥陀様の仏国土=極楽は48願が具現化されたもので、それとCIAの状態とは果たしてどれだけの違いがあるかということです。

 

私は真宗門徒でありながら、この世を離れた極楽をほぼ信じることができません。死後に世界があるのは信じていますが、それはこの世という舞台で100年近くあるいはそれより短命でも頑張ってきた人が死んで休憩するところです。天国や極楽、地獄というのはこの世の幸せが天国・極楽で、この世の苦しみが地獄だと思っています。阿弥陀様のお浄土もCIAという形で生きて到達可能なものと受け取っています。すべては私の受け取りなのですが、これで心に平安があるのですから、そうは間違ってないと思うのです。いかがでしょうか?