愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

なぜ生きる?

 なぜ生きるのか? 少なくない人が悩むことだと思います。たかだか100年生きてもみな必ず死んでしまいます。必ず死んでしまうのに、人はなぜ生きるのか? 私もそういう疑問が頭から離れなかった時期があります。悩みだすとなかなかそこから抜け出ることが難しい疑問の一つです。私は幸いにも、今はそういうことで悩むことはなく、日々幸せに過ごしていますが、なぜ生きるのか考えたことのある人がいたら、私のそれに対する考えにも耳を傾けていただきたいです。


 以前このブログの記事の中で、この世は刑務所のようなものであって、刑の種類や刑期に多少の差はあっても皆が刑務所の中で過ごしているようなものだというようなことを書いたことがあります。それに似ているのですが、この世は病院のようなものだという見解があります。人は何かを病んでいるがゆえにこの世に生まれてくるのです。ここで病むといった場合、その多くが心理的なものと受けとることができます。人にはさまざまな心理的な癖があり、それが体の病となって現れたり社会の中での生きづらさと関係しているからです。


 私たちが入院する目的は、再び入院しないで済むためです。つまり健康になって再び病院のお世話になることがないようになるために入院して治療します。それと同じように、私たちがこの世に生まれるのは、再びこの世に生まれてこないためです。病院であるこの世に生まれてきたならば、健康を回復して再びこの世に生まれないようにしなければなりません。この世が病院というからには、この世は一時的であってこの世とは別のところに永住する場所があるのでしょう(あるいは私という小さな存在がなくなってしまう可能性もありますけれども)。私たちはその場所を忘れていますが、本来の居場所に戻って過ごすために、病院であるこの世を最大限に活用しなければなりません。しかしながら、この世に生まれてくること=輪廻という病をなかなか克服できない事実があります。


 この世は喜びがありますが、それと同じように多くの悲しみもあります。楽しみと苦しみ、幸せと不幸も。病院での生活が快適であると感じて退院したくない人もいるかも知れませんが、この世の悲喜こもごもに魅力を感じてそれに引っ張られて執着を育むのではなく、私たちは真の故郷を目指したいものです。


 自分のどこが病気なのかはなかなか気づきにくいものです。私もそうです。おそらくは執着や欲望、エゴ、嫉妬、憎悪などにつきまとう悪魔の蜜に侵されているのでしょう。多くの宗教はそれらを根こそぎにするための処方箋を示してきたと思うのですが、悲しいかななかなかそれらに従うことのできない凡人がたくさんいます。私もその一人でしょう。病院では医師が薬を処方し、それと同時に食事や生活習慣のアドバイスをしますが、素直にそれらに従わないとなかなか健康でいるのは難しいのと同じで、輪廻という病から解放されるためにも、少なくとも1つか2つはよき教えに従わなければなりません。


 かなりの苦労をしてきたにもかかわらず、私もこの世の楽しさには抗し難い魅力があるのを知っています。人間の性(さが)とでもいいましょうか。しかしながら、真の故郷には私の帰りを待っている存在がいるのでしょうし、そこでの至福はこの世での喜びに比べると遥かに素晴らしいものなのだと思います。天国や極楽に似た何かでしょうか?しかし病気が治らなければ、そこに永住できない、最近そう思うようになりました。この世という病院で自らの悪癖を少しずつ治すようにしています。この人生はもう50年経ちましたが、どれくらい人間として向上したか心許なくはあるのですが、残された人生も、師や神の指針に従ってわずかばかりでも悪癖の克服に取り組んで行く所存でいます。再び入院しなくて済むためにも。

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 はてなブログに移行できるようになったようです。次回(来週
)の記事を最後に書いて移行を試みるつもりでいます。これまで読んでくださった方々には感謝しています。皆様が日々お幸せな時間を過ごされますように。