愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

サマディ(三昧)

 

先週シャンカラーチャーリヤの詩
(よき仲間は無執着へと導き、
無執着は人を迷妄から解放し、
迷妄からの解放は心の着実さへと導く。
そして心の着実さは人に解脱を与える。)
について触れました。今日はこの詩の後半部分に少し焦点を当てて書いてみたいと思います。

 

ツイッターを見ていたら、「仕事ってキレたら終わりのゲームだなと思う。キレていい結果になってるの見た事ないし、大体よくない結果になるうえそれが後引くし、最悪の場合人生狂うレベルで悪い結果になる。(後略)」(井上大輔)というツイートを見かけました。このツイートの内容についてはよくわかります。私は多分ですが比較的怒りの少ない人間ではありますが、しかしあまりにひどいと怒りが湧くことはあります。表現能力のなさを恨んでも仕方ないのですが、何といっても相手が理解しない場合には語気が荒くなってしまいそうなことはこれまで何度もありました。実際にキレたこともあります(言葉だけですが)。しかし引用したツイートにあるように、非が仮に相手にあったとしても、「キレたら終わり」であることは皆知っていていいことでしょう。

 

一方に二元性があって、一方に一元性があります。二元性とは、利益と損失、喜びと悲しみ、苦と楽、成功と失敗などのことです。また自分によくしてくれる人にはよく接し、自分に敵対している人には敵対し、愛には愛を、暴力には暴力をかえすこと、真実には真実を、嘘には嘘をかえすのもある種の二元性です。これに対して一元性とは上記のようなことがなく、人生のアップダウンや二項対立を等しく見ることです。

 

日本に三昧という言葉があります。このサンスクリット語はサマディです。三昧が日本仏教においてどういう文脈で語られているのか私は知らないのですが、般若などと関係しているかも知れません。サマディはサマ=等しい、ディ=知性の組み合わせで、いつも知性が安定していて一元性のみが見えている状態です。二元性に振り回されていないのです。一方般若はサンスクリット語でプラグニャーナでしょうし、サイババはプラグニャーナをCIA(constant integrated awareness:常に統合された包括的な意識)と説明しています。プラグニャーナとサマディは関係があると思うのです。

 

常に統合された意識というのがどういうものかという問いはありますが、少なくとも100%自分がなしていることを理解していることは確かではないかと思います。自分の思いと言葉と行動がコントロールできている状態です。つまり起きていることに対して変わらぬ態度で向き合えているわけです。部分的に自分がしていることを理解しているのは視野の狭い英知で、100%理解しているのは開かれた完全な英知といえるかも知れません。たとえですが、出産したばかりの両親特に母親は赤ん坊のことにずっと意識が向いているでしょう。夜泣いてもすぐに起きて乳を与えたりなだめたりします。まともな睡眠が取れないと聞きます。私は赤ん坊の面倒をみる経験はありませんでしたが、それでも人生の短い間でしたが、四六時中あることに意識が向いていて睡眠時間が少ない時期がありました。それを経験した後では、自分の意識状態が以前とずいぶん変わったような気がしています。光明瞑想のおかげもあります。自らの思いと言葉と行動に責任をもとうとする習慣ができています。そうはいっても苦手なところを刺激されると気持ちが不安定になりかかることは今でもありますけれども。

 

シャンカラーチャーリヤの詩に戻れば、迷妄とは簡単にいえば二元性です。一元性を選択するということは心の着実さをもたらすわけです。心の着実さとはサマディ(知性が安定していて、人生に100%の責任をもとうとしている状態)に近いでしょう。プラグニャーナの状態において、特に知性に着目した言葉がサマディなのかも知れません。人生に100%の責任を持とうとしても、必ずしも人生が自分の思う通りに進むわけではないでしょうが、それでも対応できる範囲の対応を決して放棄しないということです。

 

アシュタンガヨーガはインドで有名ですが、これはヨーガの8段階について述べています。7段階目が瞑想で最後の8段階目がサマディ(三昧)です。7段階目の瞑想までは自分の努力で到達できるようですが、8段階目のサマディは恩寵次第だと聞いたことがあります。サマディは人生の目的地を表す一つの言葉=境地ですが、恩寵に依存しているとしても、自らが何をしているか100%意識して日々生きていく努力はできなくはありません。こういう努力の果てに解脱が来るとシャンカラーチャーリヤはいっていますし、アシュタンガヨーガにおいても、最終的にサマディに近づくと述べられているのでしょう。私は解脱やサマディの境地に達してはいませんが、可能な限り自分がやっていることを意識し理解し、人生に責任をもとうとしています。