人間のなすべき研究は人間

 

アレキサンダー・ポープという方が約300年ほど前に書いた詩の中に
Know then thyself, presume not God to scan;
The proper study of Mankind is Man.
(次にあなた自身を知りなさい。神が見通しているのを仮定するのではなく。
人間のなすべき適切な研究は人間です。)
という詩句があるようです。自分で自分のことをよく理解することの大切さを強調しています。

 

人間の研究とは何なのか、人はもしかしたらそのこと自体について悩むでしょう。自分のことをよく知りなさいとはいうものの、それがなかなかできないのが人間です。人間の構成要素について調べるだけでも10年以上かかるかもしれません。例えば心理学や医学は絶えず発展し続けています。こだわりだしたらキリがありません。しかしながら今私は人間の研究とは思いと言葉と行動の一致・調和に関係することだと思っています。自分の思いも言葉も行動も少しばかり注意していたらわかるでしょう。そしてそれらがある程度一致しているかあるいはてんでバラバラなのかも。基本的に思いと言葉と行動の間には一致あるいは調和があるのが望ましいのですが、それが難しいならばなぜなのか原因を問うのが人間の研究です。あるいは人間の研究を次のように述べることができます。愛を育み、愛をもって語り、愛をもって行う。愛とは何なのかも研究対象です。私にとっては愛は属性のないもののことです。愛を育むとはどうすることなのか? 愛をもって語るとはどういうことなのか? 愛をもって行うとはどういうことなのか? これらが人間の研究です。簡単なようでかなり奥深いものです。地道に探究を続けていたら、人間理解が少しずつ進んでいきます。ただ当然他にも人間研究の問いの立て方はあるでしょう。

 

私は英語の厳密な意味でmankindとmanの違いはわかりません。kind(親切)なman(人)と生物種としてのman(人間)の違いはありそうです。人間を研究できるのは親切な人(善良な人)であって、動物のような生活を送っている人はまずは落ち着いた生活をおくることを考えるべきで、知性が落ち着いているときに人間の研究が初めて可能になります。

 

善は一般に人生の目的であるとされます。善いことをするために生きている。確かにそうです。悪いことをわざわざするために人間として生まれたわけではないでしょう。善が人間の目的であることを私は受け入れています。ただ一方で善は人間を研究する、つまり分析統合するための道具でもあると思います。何かの作業をするときには真っ暗闇の中では困難なわけです。光があってこそ何らかの仕事ができます。それと同じように、善というものが一時的なものであろうとも、それは一時的に人間存在を照らし出し、人間の研究を可能にしてくれる面はあります。つまり善は人間探究の手段でもあります。真っ直ぐな定規だけがものの長さを測ることができるのであって、曲がった棒で長さを測ることはできません。一時的であっても善であるときに探究がうまく進みます。

 

the proper study about man(人間に関する適切な研究)を続けていたら何に到達するのでしょうか? 私自身がその途上にいるので断言しかねるのですが、思いと言葉と行動の一致が現実となるときには、人間の肉体につきまとう幻影(インド哲学の用語ではマーヤー)は影を潜めていきます。リアルなものがリアルなものとして現れてきます。そういう効果は確かにあるでしょう。また思いと言葉と行動が一つであるならば、それは結局自らあるいは一般に人間存在の一元性を意味します。

 

世俗の勉強でも何かしら発展的なものを希求するならば、人のいうことや単に本に書いてあることを鵜呑みにせず、自分で納得するまで調べます。同じように人間が発展していくためには、人間とはこんなものだという世間一般の観念を単純に受け入れるのではなく、自分が納得するまで調べるべきです。これは霊性の領域における最大の探究つまりアートマ知識を獲得することにつながっていくでしょう。素粒子について研究していたら実は宇宙のことを研究していたというのは現代物理学のことですが、人間の研究は実は単なる人間の研究にとどまるわけではない。私は少なくともそういう感触が得られるまで人間について研究すべきではないかと思っています。