愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

一体性(unity)5

 今日日本がワールドカップサッカーで敗退しました。私は今回試合を見ていないのですが、かつて集団スポーツをしていたことがあり、やはり強いチームは弱いチームに比べ、言葉にしなくてもちょっとした動きなどでコミュニケーションが取れ、一致団結して目標に向かうことができると思っています。瞬時の的確なコミュニケーションと判断ができるかどうか、これも一体性の程度次第に思うのです。
 
 頭脳が手や指、足などにああしろこうしろと命令してから、手や指、足が動くのではありません。それは一つの体なので前提としてもとから一つであり、そして常に一つとしてあり続けます。私の受け止め方としては、頭部にある頭脳が肉体をコントロールしているというより、全体が一つの頭脳ですらあると思うのです。肉体は骨と肉と血の塊ですが、しかしそこに意識が浸透するとき、肉体は知性をたたえます。霊的英知というものは、頭脳による肉体の支配が終わった後に静かに訪れるのかもしれません。しかしながら、本能や感覚の赴くままに肉体を用いていると、肉体や精神は容易に病んでしまいます。頭脳には頭脳の機能があるはずですが、それについての探求はまだそれほど進んでいないように思います。
 
 人間社会がどうあるべきかを考える際に、肉体の機能から学べることは本当に多くあることでしょう。
 
 一体性があって純粋性があるといいます。これはどういうことかというと、私ではなく私たちのことを考えて行動していると、つまり主語が私ではなく「私たち」となって行動するとき、「私」で象徴されるところのエゴが滅ぼされて人間の意識が浄化されるということです。つまり一体性とは個人で追求できるものなわけです。自分がこの肉体であると考えて行動するのではなく、たとえば自分が家族の一員であると考えるなら、個人に限定された利益ではなく、家族全体のことを考えて最もよいと思われることを行う、それが一体性です。子どもを育てる母親は肉体的・精神的に苦しくても子どもに愛を向け続けます。単に自分の安寧だけを求めるのではなく、子どもを含め家族全体にとって良いと思われることをします。母親にとって自分というのは、自分の肉体ではなく、自分と子ども(そして父親もが)一緒になった肉体を超えた存在のことだといえるでしょう。霊的な存在が行為の主体となった行為でなければ、それは一体性とはいえません。
 
 それに対して、前回触れた仲良しごっこといえるものは、その動機にあるのは自己愛であって、つまりはエゴを満足させることです。
 
 大切なのは行為の主語です。それが「私」なのかそれとも「私たち」なのか。
 
 「私たち」の範囲が、家族、地域社会、職場の人たち、国家、世界と常に拡大し続けるとき、そのときその人の行為の主体は神性と呼ばれるものへと近づいていきます。その人にとって世界は自分の身体であって、世界にとって最善であるとされる行為を自然にとるようになります。いわゆる聖者というのはそういう存在のことです。
 
 愛の拡大を忘れた人や組織は死に等しいといえます。その時点で個人的なエゴ、組織エゴが芽生えるからです。人間の進化とは絶え間ない拡大のことだといっていいのではないでしょうか。