愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

人間に許された自由

 近代と現代にインドに現れた二大聖者であるラーマクリシュナとラマナ・マハルシの言葉に次のようなものがあります。

 

「自分の行為というのは神が起こしているのであって、自分自身にその力はない―。これを知っているものは、肉体の中にいても真に自由である。」(ラーマクリシュナ)
「あなたが仕事をするかしないか、どこへ行くか行かないかは、全て運命に従って起こる。あらゆる行動は、生まれた時点ですでに決定されているのだ。唯一あなたに与えられた自由とは、外側に向かう心を内側へと向けることだけである。」(ラマナ・マハルシ)
 
 2つの言葉は似たようなことをいっています。二人は運命論について述べていて、その上で人間に許されたわずかばかりの自由について触れています。運命論を徹底するならば、外側に向かう心を内側へと向けることさえ運命によって決まっていますし、心の中をどのような想念が満たすかも同じくあらかじめ決まっています。
 
 私も基本的には運命論者です。一方で人は自由にカルマ(行為)をなすことができるという主張がかなりの説得力をもつこともわかっています。しかし、自分の心が静まっているときには運命論が妥当であろうと思うことが私は多いです。
 
 人間の人生が運命によって定まっているとして、ならば人間には何が許されているのか? 極端な運命論は今は脇においておいて、ラマナ・マハルシの言葉を補完することをしてみたいと思います。
 
The proper study of Mankind is Man.(人間[人類]がなすにふさわしい研究は人間である。)
 
 詳しくは知らないのですが、これはミルトンの詩の一節かあるいはアレクサンダー教皇のAn Essay on Manの中にある言葉のようです。個人が神の計画の中で場所を割り当てられており、その状況の中で自らを研究し可能な限りの”完璧さ”を追求するのが人間の務めではないかという文脈の中に現れた一節のようです。ここでもラーマクリシュナやラマナ・マハルシに通じる運命論と残された自由がテーマになっています。
 
 ラマナ・マハルシにとってはproper studyというものが外側に向かう心を内側へと向けることであったのでしょう。
 私の師は、proper studyは思いと言葉と行動の純粋さであると何度も語っていました。つまり心を内側へ向けるとは、具体的には思いの純粋さ、言葉の純粋さ、行動の(動機の)純粋さを確保する作業のことであると理解できるのです。これら3つが純粋でなければ内側を向いても見えるものがないからです。さらに付け加えれば、人の心の中には複数の思いがあり、言葉の可能性も複数あり、人が行動するきっかけも複数ありえますが、それらが自らが置かれた状況の中でうまく調和するように「組み合わせる」ことも人間に許された自由ではあるでしょう。
 
 運命論によれば、私がこの記事を書くことは生まれた時点で決まっていたわけですが、私は私に許された自由、つまり思いと言葉と行動の純粋性を確保するためにわずかばかりですが努力を重ねてきたことで、何とか状況にふさわしいように振る舞えたわけです。
 
 ラーマクリシュナは「肉体の中にいても真に自由である」といっていますが、自らの思いを吟味し、言葉を吟味し、行動の動機を見極めることは、私にとっては実際自由を感じるひとときではあります。肉体は運命によって操り人形のように四六時中動いているのですが、内側がそれに適応しているのです。これはかつてこのブログで一度だけ取り上げたことのあるman management(人間の管理、マネージメント)ともいえるでしょう。私はそれを楽しく感じるのですが、皆さんの場合ははたしてどうでしょうか?