愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

文化的変容と霊的変容

次のようなメッセージ(こちら)の中に次のような文があります。
―スワミはインド以外の国において、「世界中で日本こそは文化的変容がすでに始まっている所であり、文化的変容は霊的な変容の基盤になる」ともおっしゃっている。―
 
この言葉は1996年時点のもので今から約24年前のことです。当時文化的変容が起こっている国はインドと日本だけであると、私はこの文を理解しました。1996年は私が27歳の頃で、当時の自分の状況、社会状況についてはほどほどに覚えています。時の流れは意識しなければ一続きであって、のんべんだらりと流れているのですが、サイババが文化的変容という言葉を用いるとき何を意味しているのかは完全にはわかりかねるのですが、私の個人的な経験に照らし合わせて、私は日本における文化的変容の一部を目撃する立場にあったかもしれないと思うことがあります。それは1991年のことでした。
 
一方で霊的変容というとき、他国のことはわかりませんが、日本では今それは進行中のような気がしています。やはり私はその一部を目撃しているのではないかという気がしています。それは語るのにとても微妙ではあるのですが、しかし何か不可逆的な変化が起こっていると感じている人は私以外にもいるはずです。一見気の迷いによってそう思えるのかもしれませんので、大層なことはいえません。
 
人間は体と心と存在が組み合わさったものです。肉体のことはおいておきます。文化的変容とは単純化すれば、心=認識における変容のことであり、霊的変容とは存在における変容のことです。文化的変容=認識における変容が起こってない人が霊的変容を実現できることはないと思います。私の見解では、西洋自然科学の枠組みを抜け出せてない人は文化的変容を経ていません。単なるスピリチュアルな人が自然科学の枠組みを無視するのも同様に文化的変容を経ていません。西洋自然科学が世界をどう見ているのかを適切に理解している人だけが、この現代において文化的変容を経ているといえます。西洋のものの見方を理解した上で、自らを育んだ文化を適切に評価できる人だけが文化的変容を経ているといえます。別の角度からいいますと、独善的なものの見方を正見と主張するのではなく、ふさわしくお釈迦様のいう正見(正しいものの見方)を身に着けた人だけが文化的変容を経ているといえます。
 
霊的なことに関してこのブログでは述べていますが、例えば2週間前に「人間に許された自由」について書きました。その中で、人間は意識を内側に向けることしか許されていないというラマナ・マハルシの言葉を取り上げましたが、例えばこの言葉が心からしっくりくる人だけが霊的変容の途上にあるといえるかもしれません。その人は、認識における変容をすでに経ているので、さまざまなものの見方の影響を排除できます。さまざまなものの見方というのは外的なものであって、人のものの見方はさまざまだから真理などというものは存在しないと考えているうちは、霊的変容へと歩みをすすめることができません。霊的変容とは、真理の領域で真理を生き始めることなのですから。
 
このあたりのことについてもう少しだけ触れておきます。Consciousness is God.という言葉があります。Consciousnessは意識とでもいうものですが、単なる意識ではありません。遍在の意識です。私は自然豊かな山の中を歩くのでわかるのですが、森の中では意識が解放されます。肉体に制限された狭い意識が解放されて世界との一体感が感じられます。このような意識は、エゴのない人は日常生活でも感じていると思います。エゴ=肉体を自分と思うこと、が少ない人は肉体を超えて世界が自分の体だと感じるものです。エゴは人間を内と外とに分けるものでしょう。内と外が一つになったもの、それがConsciousnessです。このConsciousnessを日常的に感じるようになることは霊的変容といえます。基本的に、お釈迦様のいう正見以外のものの見方はエゴに基づいているのでしょうから。
 
認識=色眼鏡をかけておらず、エゴなしに生き始めた方々が増えている。それが日本で現在起こっている霊的変容と私が感じるものです。日本人はこの面でインドと並んで世界のリーダーになれるわけです。困難は多いでしょうが、この道に沿って生きることは一つの大きな喜びではあります。そして日本と世界がどのように変化していくかを見届けるのは、おもしろいことだと思うのですが、どうでしょうか?