愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

政治的であること

 実は私は政治があまり好きではありません。面倒で非生産的で、少なくともニュースを見る限りは誠実さを感じることが少ないからです。とはいっても、政治が必要なことは理解しています。少なくとも戦後75年間を見ても、政治家の方々の仕事のおかげで今私が多少の便益を得ているのは確かだからです。
 
 本来人間と政治はどちらが先かといえば、私は人間の存在が先だと思っています。政治は文化的所産であると思っていますし、ならば当然人間の所有物です。人間は個人でできることは可能な範囲で行い、家族や地域などで可能なことは協力して行うのが務めなのでしょうが、個人や家族、地域で最大限の努力をしても事態が長く改善しないことは往々にしてあります。そういう際に政治を職業とする者に諸調整をしてもらう、それが政治の好ましい姿であろうと私は思っているところです。こう考えれば政治というものは非常に有用で人々に大きく役立つ仕事であることは間違いありません。
 
 そうではあっても、私の政治に対する印象がそれ程よくないのは、政治家による権力の誤用があったり、政治によって党派が生まれ人々の間に分裂が生じるのを目にするからでしょう。また政治的であるとは、人に影響を及ぼして人を操作すると理解されていたりするからです。
 
 ヨーロッパ思想はいくつか間違った考えを世間に広めましたが、その一つに人間はみな政治的存在であるという人間観があります。人間は互いに操作しあっていると考えているのです。人が他者に影響を及ぼすことはあるでしょうが、意図して人を操作し影響を及ぼそうとすることは必ずしも人間の本性ではないような気がしています。
 
 私の人間理解によれば、人は自らの存在の違和感、不調和、頭にあることだけを気にしておけばいいわけで、その原因のかなりは自らの思考や行動、他者との距離のとり方にあるわけですが、その原因を他者に見る傾向がある人は、他者を非難したり、他者を自分の思うように操作しようとします。結局のところそれが悪い意味で、政治的だという言葉の意味です。これは人間の本性ではなく、いつの間にか人間社会に広まった、チックにも似たある種の伝染病といえます。政治家ですら政治的である必要はありません。自分が考えたことを実現しようとすれば、その考えを受け入れないものを攻撃したくなるかも知れませんが、適切な政策は必ずしも思考によってもたらされるものではありません。
 
 人は他者の苦しみを自らのものとして感じるとき、それを取り除く努力をしようとします。政治家が社会の問題を解決しようとする動機はそこに求められるべきでしょう。政治家が社会のある集団と一体であるとき、真の政治家はその集団の問題を理解し、解決への意欲をかき立てられます。社会の問題は思考によってもたらされるのではなく、自らが引き受けた痛み、苦しみによって理解されるわけです。よい意味で政治的という言葉を使うとすれば、この意味で用いられるべきです。人間としての器が大きい人ほど、大きな痛み=問題を理解することができます。
 
 現状を見れば、政治はほとんどの社会問題に対して適切な対応ができていないような気がします。逆にいえば、政治にはまだまだ大きな可能性があるわけでして、私個人は政治に関わることは生理的に好まないのですが、意欲のある人たちには政治を通じて社会に奉仕する機会を積極的に求めてほしいと願っています。新しい人たちに望むのは、政党の違いに大きな違いを見ず、党派によらずすべての政治家がお互いを理解するように心がけて、立場をこえて一つになってほしいということです。熟議と決断によって新しい日本を切り開く人々の登場を期待しています。