ばち

 今の若い人は言われることがあるのかどうか知りませんが、私(50歳前)は幼いころにしばしば「ばち」「ばちが当たる」という言葉を聞いていました。説明されなくても、語感からか、心に突き刺さる言葉でした。そのまま年を取っていき、何か悪いことがあると、ばちが当たったのかなと自然に思うことがありました。

 そのためか、神様は怖い存在でした。何か悪いことをすると罰せられる(ばちを与えられる)ので、神様のことに関してそれ以上知ろうという気が起こらなかったものです。神様は全知全能ですから、心の中に隠し事ができません。心の中に隠し事ができないというのはその通りではあるでしょうが、しかし他の人の前で嘘をついて何かをごまかせても、ごまかしの効かない存在があるということは、時に心の大きな負担でした。

 しかし長じて、(説明すると長くなるのでしませんが)神様は決して人間にばちを与えることはないということがわかってきました。人間は基本的にこの世の中で何をしてもいいということも同時にわかってきました。ただし条件があります。この世で何をしてもいいのだけれども、その行為の結果は善いものであれ、悪いものであれ、そのまま味わわなければならないということです。
 それはあたかも、山地で大きな声を出すとこだまが返ってくるように。テーブルをこぶしで打つと、こぶしもテーブルから同じ強さで打たれるように(つまりこぶしも痛みを感じるということ)。

 神様はありがたくも私たちをこの世においてくださり、自分たちの望むことをすべて達成できるように祝福してくださっています。一切の差別なく。神様はこの上ない慈悲と愛の権化です。

 この世の苦しみも喜びもすべて自分次第です。もし自分の本心に従い、愛に沿った生き方をするならば、それに応じた結果が与えられます。ただそれだけです。すべては自分次第で、ならばよりよい結果を得るにはどうすればいいかについて、多くの聖典は触れています。

 このことがわかってきてから私も人にああしろとかこうしろということが減ってきました。ただ、人が苦しむのを見るのは辛いので、無慈悲な行動や無知ゆえの行動は、やんわりとしないほうがいいとほのめかすことはあります。

 行為の結果定められた人生のありようを運命というならば、その運命を書いたのは自分であり、また自分がそれを書き換えることができます。

 人間は運命の結果に直面することで内面を向くようになります。外に向いていた意識を内面に向けることができるというが、人間の自由の主なものです。