目は聖典

 世に聖典はたくさんありますが、聖典に関して次のような言葉がありました。
 「あなたの目(ネトラ)は神が与えた聖典(シャーストラ)です。この聖典を理解し、それにしたがって行動しなさい。」
 最初は意味がよくわからなかったのですが、少しして気づいたことがあるので、それについて書きたいと思います。

 五感の中で最も情報を与えてくれるものは視覚(目)だといいます。私たちは外界を目を通じてみています。目を通じて眼前に見えるものが私たちにとって聖典なのだということだと思います。

 外界に見るすべては私たちに内在するものに気づかせるための媒体です。たとえば、優しい人が目の前にいれば、その人のことを優しい人だと思います。自らの内に優しさというものがあるがゆえに、他人の優しさに気づくことができます。同時に、人の愛ある優しさに触れ、自らも同じように生きることができる(つまり自らも愛と優しさを表現できる)ようになります。自らの内の愛と優しさに気づくきっかけを得るのです。

 チョウは優雅に飛びます。その優雅さを見るにつれ、人は優雅とはどのようなものかに気づきます。新雪の雪の白さを見ると、純粋さとはどういうものかに気づきます。他にもさまざまに私たちは外界を通じて内なる何かを知ります。

 一人の人を通じてさえ、その人のさまざまな面を知るにつけ、多くを学びます。自然からも過去から引き継いできた文化遺産からも。見えるすべてのものから学べます、道徳的、倫理的、霊的なすべてのことを。

 目は聖典。目が曇っておらず、目が物事をそのままに受け取ることができるのが好ましいでしょう。もし目が曇っていれば、にごりバイアス(偏り)のかかったものしか見えなくなります。謙虚に目を見開けば、きっと世界が言葉を用いずに私たちに何かを教えてくれるはず。

 科学でさえ、すべては観察から始まります。現代では、顕微鏡や望遠鏡などそういう機器を用いて見れるものから多くを学んでいます。

 一時期関心をもったフランスの哲学者フーコーは「考えるな、見よ」といいました。考えることは度が過ぎると外界への目を閉ざすことと等しいのですが、そうすると物事を理解できなくなることしばしばです。そういうときは、虚心に外を見てみる。

 多分この世界の中で生きているのは、そして世界が今のようにあるのは、よりよく学ぶことができるため。今の時期は寒いですが、そういうときに自然の中を散歩すると、問題を抱えていても、気分が一新され、また歩む勇気が与えられます。

 最近少し目が悪くなってきたのが心配ですが、これからも目を大切にして、世界という聖典から少しでも何かを学べたらいいなと思っています。たくさんの文字を読むよりそちらのほうが効率がいいかもしれません。