g,o,dとgod

 すべての知識は人間の心の中にあると言われます。宇宙に関するすべての歴史も人間の中にあると言われます。西洋の心理学で無意識と呼ばれるものは、心の中にあって普段目に触れることのない人類の歴史が詰まった「書庫」のことではないかと思うのです。教育とはそれら内に内在するものと外界にあるものに対応をつけることでもあります。

 godと書かれていると私たちはそれをゴッド=神と読みます。中学で英語を勉強したならば、それをg,o,d(ジー、オー、ディー)とは読みません。それぞれ異なる文字であるg,o,dを結びつけてgod(ゴッド)と読みます。これは教育です。

 私たちが外界に、一見関連のなさそうな事物をいくつか見るとします。注意しなければそれらの間には関連はないのですが、刑事が見るとそこに事件の痕跡を見るかもしれません。政府はいくつかの経済指標を発表していますが、普通の人はそれらの数字を見ても、なかなか意味が読み取れません。しかし専門家はそれらを通じて経済状況の一端を読み取ります。もっと身近な例で言えば、家にいくつかの食材と調味料があるとします。そこから料理を組み立てること、そこにも教育の跡を見ることができます。

 いくつかの事物からそれらの関連性を見つけるためには、自分の内面や記憶を掘り下げていく必要が出てきます。心のある場所を探ることで、それらの事物を統一的に見ることができます。そのような内面の探求が教育の本質です。

 心の中を深く深く探求していけば、いつか自分を含めた世界全体を一つの視野で眺めることができます。すべてが一つという理解です。ごまかしや単なる推論ではなく、本当に世界が一つであると見れるならば、そのとき、彼・彼女はすべてを見ることのできる照覧者(=見るものの立場)を得たのであって、それこそがアートマ=真の自己に立脚したということになります。

 すべてを一つの立場から見ることができるのですから、何かと何かが目の前にあったとき、それらの関係や存在の意義を「常に」理解することができます。アートマ=真の自己を理解すれば、すべてを理解することができると言われるのはこのためでしょう。

 見るものの立場=照覧者となるならば、先日述べたwatchも理解することができます。自らの言葉、行動、思い、人格、ハートを冷静にウォッチwatchできるならば、その人はもうほとんど自己の認識に近づいていると言えます。あとはそれらを浄化するだけです。

 また人間は行為の主体であり、同時にその結果(反応)を体験するものでもあります。喜びも楽しみも苦しみも楽しみもすべてを人間は体験します。これらは自らが人間であることの証明そのものです。自分の好む体験だけを望んでいれば、人間理解に偏りが生じ得ます。

 ミシェル・フーコーというフランスの思想家は「考えるな。見よ」と言いました。世界を見ましょう。世界を体験しましょう。考えてばかりいることよりも、見て体験することのほうが人生においてはるかに大切なことなのではないかと思います。