愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

数学とシンボル

 エンジニアでなく普通の日常生活を送っているならば、高度な数学は必要ありません。仕事で帳簿をつけたり、家で家計簿をつけるのが主に数字を扱う機会ではないかと思います。中には高度な数学など学ぶ必要はないという人もいます。確かに一理ありますが、中学くらいの数学に馴染んでいればいろいろな面で役立ちます。

 現代は科学の発達した時代ですが、科学技術にも通信技術・情報技術にも、あるいはさまざまな経済活動にも高度な数学が必要とされています。数学は言語の一種であり、日本語や英語では記述が難しいことを表現してくれます。数学に比べれば日本語や英語や感情的ですが、数学はより理知的です。

 ユークリッド幾何学というものを知っているでしょうか? 小学校や中学校で学んだ幾何学のことです。ユークリッド幾何学は、平面なら直角に交わる縦と横の2つの座標軸で、空間なら縦・横・高さの3っつの座標軸で表現できます。平面は2つの座標軸で表されるので2次元であり、空間は3つの座標軸で表されるので3次元です。平行な直線はどこまでいっても交わらないとされます。

 それに対して非ユークリッド幾何学というものがあります。非ユークリッド幾何学では平行な直線が交わることがあります。アインシュタインは非ユークリッド幾何学の一つであるリーマン幾何学というものを使って空間の性質を研究しました。それによって私たちが住むこの宇宙の空間が曲がっていることや物質とエネルギーの互換性(物質はエネルギーになり、エネルギーは物質になること)を予言しました。そしてそれが実験と観察によって確かめられアインシュタインの理論が世に受け入れられていきました。

 何が言いたいかというと、漁師が網によって魚をすくい取るように、物理学者をはじめとした科学者たちは、数学という言語によってさまざまな現象の中から意味のある一連の関係のある現象をすくい取っているということです。望遠鏡で遠くの星が見えるように、顕微鏡で小さな世界が見えるように、電子顕微鏡でミクロの世界が見えるように、数学というメガネによって世界が特徴あるものとして見えてくるのです。ユークリッド幾何学も非ユークリッド幾何学もともに正しいのですが、それを通じて見えてくるものが異なるのです。

 数学は真実かといえば、それは日本語と同じ程度に真実だと言えるでしょう。言葉は単なる音ですが、言霊ともいうように人の心を揺さぶる力があります。数学も単なる記号ですが、論理で裏打ちされマインド(=頭脳)の性質を示す何かがあるように思います。数学そして言葉は内にあるものと外界とをつなぐ働きをする仮象(感覚的には存在するようだが、それ自身は客観的な実在性をもたない形象)です。

 普通の人間がマインド(=頭脳)を安定的に機能させるには、シンボル(=仮象、象徴、概念)が必要となります。インド人をはじめとした多くの人は偶像を崇めてきました。それは人間の精神を安定させます。西洋近代人は合理性=数学のようなシンボル・デザインを多用して心=マインドや制度の安定を図ってきました。そしてまた一部の人は貨幣=お金というこれまたある種の言語を崇める拝金主義者も現代にはいます。どのようなシンボル(象徴、記号)を用いるかは人それぞれですが、人間がシンボルを必要とすることは確かなことでしょう。人間はシンボルを扱う動物だという人がいます。

 シンボルが必要であるならば、どのようなシンボルを大切にするのがいいでしょうか? 日本語や英語などの普通の言葉も不可欠です。数学も必要です。現代社会においては貨幣も必要です。どれもほどほどに扱えるに越したことはありません。しかし、霊性において必要なシンボルは神の御名です。それは心の安定、平安に必要です。御名に執着していれば、この世の些事に関する執着はどこかへ押し流されていきます。(実際に御名を唱えその音に集中していると誰もが実感すると思います。御名を唱えるとこの世のことがどこかにいってしまうのを感じるので、この世に執着している人は御名を唱えることを好まないのではないかと思ったります)

 シンボルを必要としない人とはどのような人でしょう? それはサマディ(三昧)の状態にある人です。サマディ=至福を体験している人は、言葉を発することができないと言われます。それはヨーガの到達点なのですが、その途上にある人には、シンボル=神の御名や偶像が有用です。