神を縛る

 神との関係を考えるとき、3つの段階があると言います。まずは「私はあなたのもの」という段階、次に「あなたは私のもの」という段階、そして最後に「私とあなたは一つ」という段階です。

 「私はあなたのもの」とは神の与える状況を完全に受け入れることです。自分の置かれている状況を神のご意志として受け入れ、耐えることです。自分はこれまで自分なりに努力してきて自分は今ふさわしい状況にあるのだとすべてを受け入れます。神に注文をつけることもありません。自分の望んでいない状況に置かれた場合は多少困難ですが、この態度は多くの人にとって容易です。子猫が親猫に首をつかまれて運ばれるに任せるようなものです。神は完全に自由ですが、信仰者は束縛されています。(日本人のほとんどはこういうタイプの人ではないかと思います)

 最後の「私とあなたは一つ」の段階は難しいものです。エゴがなくなり、自他の区別のない状況で、よく言われる不二一元の境位です。執着がなく、自分のものという感覚もありません。

 今日は「あなたは私のもの」という関係、信仰者が神を縛る関係について書こうと思います。人が神を縛ることができるのかという疑問が生じますが、神は信仰者の真摯で純粋な思いを無視することはできず、人間への愛から神は人の思いに縛られもするといいます。

 死について研究した人にキューブラー・ロスがいました。彼女は不治の病にかかった人や、重い障害を得た人の態度について、医者の立場からいろいろな研究結果を残しています。死の間近な人、回復不可能な重い障害を得た人は最初それを受け入れることがなかなかできないのですが、それを受け入れるてしまうと、患者は次に神と取引をするようになると書いています。私も比較的重い病を得たので、このことはわかります。自分の病気を回復してほしい、なぜ自分がこんな目に合わなくてはならないのか、もし治してくれたら私はあなたのために生きるなど、あらゆることを取引材料に神との対話を開始します。これは多くの人に見られることだそうです。

 私はこのような取引は必要なことだと思います。病(苦難)は最高のグル(霊性の師)であるといわれるように、病(困難)は人を神へと向き合うようにします。私は病というものをきっかけとして、神と対話を始めるようになりました。それまでは、「私はあなたのもの」の段階、つまり神は自分よりも高みにあり、すべては神のご意志であり、神と私との間はかなり距離のあるものでした。しかし病は私を神へと近づけました。

 何年もの間神との対話を繰り返してきました。15年ほど繰り返してきたと思います。誰にもぶつけることのできない不満を神にぶつけてきました。自分の中の汚い思いもすべてぶつけました。世の不条理も何もかもです。自分の信じる神に対してです。何も返事はありません。傍から見れば独り言です。自分が何をいっても、何もならないのではないかと思いつつも、自分の思いを受け止めてくれる人はこの世にはいなかったので、ずっと語り続けてきました。

 このことは無駄だったのでしょうか? いえ、これは「あなたは私のもの」といわれる神との関係、私が神を縛る関係でした。神は私に何も言葉を語りはしませんでしたが、高みから見物するようなことはしませんでした。実の親のようにすべてを聞いていてくださいました。どうしてそれがわかるかと問われてもうまく答えることはできませんが、私はいつの間にか平安を得ていたので、確かに私の願いのかなりの部分は聞き届けられていたはずなのです。神は何も私に語ってくれはしませんでしたが、夢には私の信仰する姿で何度も出てきて下さいました。

 バガヴァッド・ギータには「他念なく私だけを思い、すべての行為を私に捧げ、絶えず私に心を定める人、私は常にその人と共にいて、その人の幸福な生活に責任をもとう」との(クリシュナ)神の約束が書かれています。(クリシュナはこの宇宙を創造した至高神が人間の姿をとったものとされています)人が幸福になるにはこれだけでいいそうです。本当にこれだけです。これを信じることです。(こちら

 神との取引、神との対話、神の憶念、神への要求、これらは私たちが神の子どもであることの印です。神と私たちが近しいゆえに語りかけます。私たちが神の子どもであるならば、私たちが心で神を縛るならば、神は必ず私たちの面倒を見てくださいます。人間の親はどんな親でも時々は間違いを犯すでしょう。しかし、神は決して間違いを犯しませんし、私たちをもてあそぶこともしません。