色メガネを外す方法

 

先週「この心によって形成された世界は色メガネを通してみたブラフマンの姿ともいえるでしょう。さて私の知っている人はこの色メガネがどうしてもはずれないと困惑していました。目に生じた白内障を改善するには手術によって濁りを取り除かなければならないように、私たちのものの見方を規定している色メガネを取り除くのも、それなりの苦労が必要ではないかと思います。兎にも角にも、色メガネを外すことができて目の前にリアルなものが見えてきたならば、それは正見であるといえるような気がします。」と書きました。ここにあるように、色メガネが外れなくて困っている人がいます。色メガネをかけたままの人は、いつまで経っても世界が多様で、真実などなく多種多様な意見だけがあるように思うかもしれません。今日は効果の程は確かではありませんが、この色メガネを外す方法になりそうなことを書こうと思います。

 

岩波文庫の『ブッダのことば』(中村元)の162ページに次のような箇所があります。
「およそ苦しみが生ずるのは、すべて感受に縁って起こるものである」というのが、一つの観察(法)である。「しかしながら諸々の感受が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない」というのが第二の観察(法)である。(中略)楽であろうと、苦であろうと、非苦非楽であろうとも、内的にも外的にも、およそ感受されたものはすべて、「これは苦しみである」と知って、滅び去るものである虚妄の事物に触れるたびごとに、衰滅することを認め、このようにしてそれらの本性を識知する。諸々の感受が消滅するが故に、修行僧は快を感ずることなく、安らぎに帰している。

 

感受とは感覚器官で受け取ることでしょう。朝目覚めて夜眠りにつくまで、感覚器官は莫大な量の外界に関することを受け取っていますし、感覚器官はそう働くものですから、感覚器官が外界の情報を受け取ること自体を否定することは困難極まりないことです。お釈迦様は「感受が残りなく離れ消滅するならば」とおっしゃっているのですから、感覚器官の印象を手放すことがここでは大切だということがわかります。さらにお釈迦様は「滅び去るものである虚妄の事物に触れるたびごとに、衰滅することを認め、このようにしてそれらの本性を識知する。」とおっしゃられます。私たちが感覚器官で受け取るものはすべて滅び去るものであるとしてその印象を否定することを勧めていらっしゃいます。これはある種識別、知性の働きです。これは一つの解決法でしょうが、すべての人が知性や識別に優れているわけではありません。

 

私は真宗門徒なので、真宗では名号を称えることを勧めているのを知っています。すべてを阿弥陀様のお働きと受け取り名号を唱えれば、すべて感受されたものが阿弥陀様になります。これは多分より簡単ですが、効果がより見込めるものです。阿弥陀様の名号に限らず、自分の愛する御名を唱えながら(感受された)世界を受け取っていれば間違いは少ないと私は思います。食器は食器として、衣服は衣服として、履物は履物として用途に従って用いる程度の識別は必要でしょうが、すべてが愛する神仏であり、愛する神仏から恵まれたものと受け取っていれば、色メガネの色の度合いはかなり減ってくることでしょう。実際、リアルなものをブラフマンとしている人との相違がかなり減ってきます。正見に近いものでしょう。

 

あるいは少し辛くはあるのですが、人生の苦楽の打撃に長い間さらされ続けていると、年を取ったときにリアルなものへの感性は高まっていることでしょう。そういう意味では、人生における困難はその人にとっての真の利益に貢献しているといえます。人生において起こることすべてが自分にとって善いことだと受け取る態度も、物質的、世俗的には仮にそうではなくとも、その人の霊性面においては正しいといえます。また、これは私の実感なのですが、ゆっくり(しかし着実にですが)生きることはリアルなものをより感じさせてくれるのではないかという気がします。私の場合急いで生きようとすれば頭が回転してしまったり、エゴが強くなってしまい、世俗にどっぷり浸かってしまう傾向があります。なのでゆっくり生きるように努めることも大切に思います。

 

私たちが感受するもの、感覚するもの、感覚に促されて形成された心の世界というのは、来ては去るものです。このことをしっかり理解することは大切です。そしてそのうち、世界よりも自分(の存在)の方がより確かである、真実味があると気づくようになるでしょう。リアルなものが衣服(マーヤー、心をじらすもの)をまとっているように、私たち自身も存在においてリアルであり、肉体自身が衣服であることに気づかなくてはなりません。そうなった時に人間がどのように生きているかは、次の探求・探究になります。肉体が自分であると感じているときと、そうではなく肉体は単に衣服にすぎないと感じているときで生き方が同じであることはないはずです。エゴ(肉体を自分と受け取る心)を土台にするか、アートマ(リアルな私)を土台にするかです。アートマを土台に生きていくことが、self realization(自己実現)という人生の目的地への歩みとなることでしょう。