愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

聖者・霊性探求者にとっての夜

 

バガヴァッド・ギーターに次のような詩節があります。
「万物の夜において、自己を制する聖者は目覚める。万物が目覚める時、それは見つつある聖者の夜である。」(岩波文庫 2章69節)
"That which is night to all beings, therein the self-subujugated remains awake; and in that where all beings are awake, that is night for the knower of Self."(スワミパラマーナンダ 2章69節)

 

 私は、この詩節の意味が何となくでもわかる人はすでに霊性の道に足を踏み入れていると思っています。スワミパラマーナンダの解説によれば、霊性の観点から見た場合、すべての存在は無知という夜の中にいる一方で聖者は目覚めた状態でいて、感覚が世界に引きずらている万物の状態を目覚めと表現した際には、聖者は夜の状態つまり感覚が活動していない状態にあるという意味のようです。ある程度わかりやすくいえば、多くの人は意識が外に向いていますが、霊性の道の途上にいる人は意識が内に向いていて、特に聖者は内なる世界に居続けているということだと思います。

 

さて、話はここから前回の続きになります。私は先週理念のように統制的なものを頼りに生きている人は夢を見ているようなものだと書きました。例えば理念あるいは物語に生きる人は意識が外に向いているか内に向いているかといえば、内なるものを頼りに外の世界に対処しようとする人といえるでしょう。外の世界100%で生きているわけではありません。少しばかりは心の世界に足を踏み入れているわけです。

 

引用が長いですが、次のような文章があります。
「誰もがブラフマンの知識を得る権利を持っています。そして、その知識を探し求める四つの段階を、誰もが毎日生活の中で経験しています(passing through)。それはヴェーダによれば、起きている段階、夢を見ている段階、熟睡している段階、そして、四番目の段階であるトゥリーヤ(解放された段階)です。」(「ブラフマスートラの神髄 p87)
この四つの段階を、昼間の活動と睡眠時の夢見、熟睡と解釈しても意味は通じるのですが、ギーターのように、意識が外に向いた状態と内を向いた状態と解釈しても意味は通じます。起きている段階は、感覚器官が活発に活動している状態だと上の引用の文章の続きにあります。

 

「夢を見ている段階では、人は自分の心から世界を創り出し、その世界がもたらす経験の中に住んでいます。そこで知覚する物事は想像上のものですが、喜びや悲しみ、愛や恐れといった感情や情緒は起きている段階と同じくらいリアルです。」(同p88~89)
理念や物語の世界に住んでいる人たちの状況をよく表していると思います。

 

さらに熟睡の段階があります。
「次は熟睡です。この段階では夢さえも見ません。人は邪魔されることなく眠りに落ちています。人は自分の手足も、音も香りも形も味も手触りも、意識しなくなります。すべての活動が心の中に包含され、心の中に隠れています。すべての経験が、より高いレベルの意識(プラグニャーナ)に吸収されます。そこには分離感と一体感、特殊性と普遍性、部分と全体といった感覚はありません。経験する者も経験もありません。ただアートマのみが存在し、人は一時的にアートマと融合しています。」(同p89)

 

何がいいたいかといえば、浅田氏は30年ほど前に「理念なしには人は生きるのは難しいのではないか」と語ったと前回紹介しましたが、それはせいぜい霊性の道においては夢を見ている段階であって、霊性の道を歩むものはさらにその先の熟睡の段階に進まなければならないということです。その熟睡している段階とは、夢を見ず感覚器官は外界から引っ込んだ状態、外界の影響のない状態のことです。少しばかりは心の活動があったとしても、おおむねすべては一つであるという状態が維持されている段階です。多分一般の人から見れば、少しばかり自閉症の世界に見間違ってしまうかもしれません。

 

今回は引用が多かったのですが、霊性の道の概略、途上を紹介できたと思います。「ブラフマスートラの神髄」はアマゾンで手に入れることができます。英語の原文を読んでみたい方はsutra vahiniで検索すれば出てくるのではないかと思います。霊性の道が少しばかり面倒くさく感じたり、小難しく感じる方もいるでしょうが、簡単にいえば霊性とは意識を内に向けることです。そして幸せは自らの内にしかないものなので、それを目的に霊性に親しむことを私は勧めたいです。