正見2

 

前年度上皇陛下のお誕生日の際に宮内庁のサイトを見てみると、上皇陛下と上皇后陛下が毎朝音読をするのを習慣にされているとありました。次のようにあります。「東宮時代からこれまでにモンテーニュの「随想録」、パスカルの「パンセ」、堀辰雄の「大和路・信濃路」、寺田寅彦の随筆などをご一緒に読んでこられましたが、最近は、お二方が共に小学生五年時に学ばれた国語の教科書を読み返していらっしゃいます。」(上皇陛下のご近況について(お誕生日に際し)(令和4年)より) 以前から「脳を鍛える大人の音読ドリル」という本が気になっていて、母はそれを元に音読をしていたことがあるのですが、私も脳の老化を予防するために音読自体には関心がありました。そして上皇陛下の近況を読み、年が改まってまだ日が浅いのもあり、音読を始めることにしました。テキストは音読を決意したときに目の前にあった『愛の流れ プレーマ ヴァーヒニー』(サイババ著)にしました。この本は73節からなり、1節が2~3ページで分量的に負担にならないよう、1日1節音読することにしました。ただし私は黙読の習慣が長かったので、音読しても声を出すだけで内容がなかなか頭に入ってきません。なので1回だけでなく、時間が許せば何度か繰り返しゆっくりと音読しています。たぶん最初から73節まで読み通しても、また最初に戻って1節から読み直し、1年間ずっとこの本を読むつもりでいます。

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さて、まだ音読を初めて日が浅いのですが、第4節に次のような文章がありました。
「人は公平な見方をしなくてはなりません。その目には、万物が等しく吉祥に見えなければなりません。人は、自分自身に抱いているのと同等の愛と信頼を込めて、万物を見なければなりません。なぜなら、万物の中にはほんのわずかな悪さえもないからです。誤った見方をすることによって、初めて悪が見えるようになります。私たちがかけるメガネの種類によって万物に色が付きます。万物そのものは永遠に純粋で神聖です。」これが公平な見方(サマ ドリシュティ)だそうです。そしてこの公平な見方(サマ ドリシュティ)はお釈迦様が説かれた正見でもあると思うのです。

 

公平な見方をする人はまったく悪が見えないようです。これはどのような見方なのでしょうか? 私は思うに、ここ数回のこのブログの記事の文脈からすると、リアルなものを見ているのだと思います。ここ数回「リアルなもの」という言葉を多用していますが、人によってはそれは一体何なのかと思う人もいるかも知れません。物とリアルなものは重なってはいますが、異なります。リアルなものは私には生(なま)なのです。一般に石は不活性で死んでいるものですが、その存在はある種生(なま)です。世界を見たときにそれが生き生きとしているように見えているならリアルなものを見ているのではないでしょうか? 

 

少しばかり付け加えましょう。世界を見るとさまざまなものが見えるかもしれません。家が見えるかもしれません。道が見えるかもしれません。空が見えるかもしれません。木々が見えるかもしれません。知った人の顔が見えるかも知れません。しかしながら、基本的に私にとって目に映るものはあいまいです。印象派の絵のような感じです。インドの用語を用いれば、それはマーヤー(幻)といえるかもしれません。私はリアルなものを見ているとき、それはマーヤーをまとっています。映画のスクリーンに映像が投影されているように。リアルなものはブラフマンであり、マーヤーはブラフマンがまとう衣服だということもできます。マーヤーは人間をじらすものであるとされます。世界に目を向けていると人はさまざまなことをついつい考えてしまいます。人はあるあいまいなものに桜と名前をつけます。また別なものには川と名前をつけます。同じように人は何万もの名前を心に蓄えています。その名前と名前に関する思考の全体がその人にとっての世界です。一方に衣服をまとったブラフマンがあり、一方にマーヤーによってじらされた心によって形成された世界があります。この心によって形成された世界は色メガネを通してみたブラフマンの姿ともいえるでしょう。

 

さて私の知っている人はこの色メガネがどうしてもはずれないと困惑していました。目に生じた白内障を改善するには手術によって濁りを取り除かなければならないように、私たちのものの見方を規定している色メガネを取り除くのも、それなりの苦労が必要なのかもしれません。兎にも角にも、色メガネを外すことができて目の前にリアルなものが見えてきたならば、それは正見であるといえるような気がします。少なくとも、世界に悪が見えている間はそれは正見=公平な見方ではないわけです。仏教ではこの正見が出発点になります。純粋なものしか見えなければ、思いは純粋になるでしょうし、それに従って人生を形成すれば人生も聖化されることでしょう。このような意味でもリアリティ、リアルなものは重要です。リアルなものが見えないならば、あるいは悪が見えるならば心が汚れている可能性があります。