超越について

 

超越というのは人間にとって一つのテーマではないかと思います。重力に引きずられた肉体とその制限の影響を多分に受けやすい頭脳が所与の条件を超越したいという願望をもつのはある意味自然なことです。今日はこの超越に関して哲学的な方面から書いてみます。

 

私は超越という言葉を考えるとき、カントのことが思い浮かびます。私は西洋的な厳密な学としての哲学の素養が少し欠けているので、カントの議論についていくことは満足にできず、カントの言葉とそれに関する適切と思われる解説を見比べてカントをごくわずかばかり理解してきました。認識のプロセスを明らかにするのが超越論的意識であるという人がいますが(超越論的ということ:カントの純粋理性批判)、今日私が書くのも認識のプロセスに関してです。認識のプロセスに関しては30年前にも書いたことがあるのですが、それとは少しばかり視点を変えたことを述べます。

 

「カント以前のヨーロッパ哲学はすべてカントに流れ込み、カント以後のヨーロッパ哲学はすべてカントから流れ出した」という人がいるほどヨーロッパ哲学においてカントは欠かすことのできない人です。そのカントの哲学の素晴らしさは経験論と観念論の統合である、と私は聞いたことがあります。経験論とは哲学的真理は経験からもたらされるという説で、観念論は観念からもたらされるという説です。この経験論と観念論が齟齬なく統合されたがゆえにカントは超越について十分に語り得るようになったのだと思うのですが、その一つのバリエーションを私は語ることができます。

 

先週私は内なる空間に関して述べました。その内なる空間=空所は、私の見解によれば経験の産物です。少なくともその純粋さは経験の産物です。人生において内省と試行錯誤を繰り返して生きていると空なる領域が広がっていきます。世事に関する知識を蓄えるのも経験によりますが、より本質的なのは内なる世界=空間の開発こそが経験がもたらす最大のものでしょう。

 

有名なヴェーダマントラにルッドラムがあります。ルッドラ=シヴァ神を称えるヴェーダの一つです。ルッドラムはナマカムとチャマカムの2つからなり、ナマカムはよくないものを手放すことを教え、チャマカムはよいものを願うことを教えるという解釈があります。チャマカムでは人間にとって有益なものが羅列されていて、それは人生の構成要素の全体そのものといえるのですが、つまり私の理解では、ナマカムに従ってこの世への執着を少しずつ手放してゆけば、チャマカムの祈りの結果真の人間として生まれ変わることができるということだと思います。giving up=手放すこととtaking=受け取ることのバランス(give and take)が重要になります。人間は、この世を手放すことで内なる世界=空間に基づいた人生を勝ち得ます。

 

内なる世界=空間におけるさまざまな作業を通じて、人は時に直感=idea=観念を獲得します。適切な心の世界・空間を確保した人=経験を積み重ねた人が観念を獲得してそれを育み、人生に応用し概念化したならば、それは経験論と観念論の統合でしょう。つまりそこに超越の可能性があります。たとえばある哲学の本を読んでいて、自分の心にふさわしい自然な形で一瞬のきらめきのようなアイデア=観念がきざしたならば、それがすぐに理論付けできないとしても、超越的であることが多いものです。

 

私個人の経験からいえば、より重要なのは心=内なる空間・空所の純粋さです。これが確保されているならば、適切なものなら何を読んでも、何を見ても、何を聞いても何らかのアイデアが得られます。小さな誰もが思いつきそうなアイデアから、世界で自分しか気づいていないようなアイデアまでさまざまですが、少なくとも自分のこれまでのありようを超越するきっかけとなるでしょう。これらのアイデア=観念を生活に取り入れることで一層心は深まり、そしてそれがまた次のステップへとつながります。人生の向上の好循環が生まれてきます。人生に誠実に向き合うことを通じて経験を重ね、よき人、よき書籍などと出会うことが大切です。