内なる空間

 

内なる世界、内面、心の中、内なる空間などさまざまに表現できますが、今日はそれにまつわることを少し書きたいと思います。

 

「上手な役者はペルソナとなり、仮面となります。まさに、そのことによって初めて、彼は観客に自己同一化を可能にさせるわけです。すなわち、観客は、その仮面の背後の空所を、自分の自我で満たすことができるのです。観客は、その同一化を、いわば外部から体験します。」 (ミヒャエル・エンデ 『ファンタジー神話と現代』)

 

私は演劇を多くは見たことはありませんし、映画と演劇は異なるとして映画もそれほどは多く観てないでしょう。しかしそうであっても、私は上に取り上げたエンデの言葉の意味はわかります。一般に演劇でなくても、普段の人間関係においても上に書かれているようなこと(自己同一化)を無意識にしている人はいそうです。役者あるいは普段の人間関係において、目の前にいる人の背後が空所である場合があります。いわゆる感情移入ができるとでもいえるのでしょうか?目に見えるものがすべてでかつ十分なケースです。逆に私が私の空所を他人の自我で満たされることもあったと思います。たとえば何でか理由はわからないのですが、笑うべきところでないようなところで私は人に笑われることがあります。

 

柄谷行人氏であっただろうと思うのですが、彼は批評家として知られており、彼は批評家の仕事はある種の交通整理のようなものだといっていたように記憶しています。交通整理は交通量が多いところで行われます。市場は商品がたくさん集まるところですが、交通量が多いところといえば、一つに交差点があるでしょう。多くの人や車、自転車などがそこで行き交います。私はさまざまな意見が表明されている中で、それらを上手に整理することは苦手です。しかしながら私は、私の書いたものを通じて、読む人と誰かあるいは読む人と何かとの出会いがあればいいなと思っています。私の書くものに比較的多く固有名詞が出てくるのにはそういう意図もあります。つまり私は交通整理はできないけれども、一つの交差点のような場を提供したいという思いはあるのです。それはエンデのいうペルソナ、仮面の背後に似て、私の書くものの背後にある空所です。それは実際のところ私の内なる空間と多分そう異なることはないのではないかと思います。誰かと出会い、どこかから来てどこかへと向かう通過点としての場=交差点。

 

適切な何かを観たり、聞いたり、読んだりするとき、人はそれらを経験しながら同時に自らも作業をしているはずです。作業が可能であるならば、与え手と受け手の心は通じているといえます。内なる空間を提供する者が愛で満ちているならば、その場において何かと何かが確実に結びつきます。世界が一つになるプロセスとはこういう地味なことの積み重ねの結果でしかないのかもしれません。心の内といえばその人だけのもののようで、確かにそうではあるのでしょうが、しかしあたかも部屋を貸し出すようにそこを他者に一時的に貸し出すことはできます。私は若い頃そういうように著者の心の中に入り込むようにして文章を読む傾向が強かったので、今でも無意識にそうしているかもしれず、また他の人から自分が書いたものを読まれるとき、それを前提として文章を書きます。大切なのは人の書いたものの内容よりも、その人の心の中=内なる空間で遊んだ記憶なのでしょう。心と心を共有することが遊びの本質だと誰かがいっていましたが、子どもだけでなく大人もそういう遊びを楽しめる内なる空間をどこかに探し求めているのだと思うのです。