人間の真の研究対象は人間である

 「人間の真の研究対象は人間である」
 この言葉にはいろいろと深い意味があると思います。

 かつてよりこのブログで書くことがあったのですが、人間にとって大切なのは思いと言葉と行動の一致です。この三つが完全に一致している人がマハトマ(偉大なる魂)であって、それぞれがばらばらな人は邪悪な人だとされます。

 思いと言葉と行動を一致されるときにまず最初に来るのは思いです。意志とでもいえるかもしれません。そして心にあることを表現したものが言葉、そして言葉で計画されたことを実行することが最後の段階です。このプロセスは人に内在するものを外界に行動として出すことです。これは地面の土を掘るのと同じプロセスであって人はこの過程を通じて内界を掘り下げます。これこそが「人間の真の研究対象は人間である」という言葉の意味の一つです。

 人はこのプロセスを繰り返すことで、少しずつ変容していきます。長い時間をかけて変容を重ねていったときに人間はどのような存在になっているのか? 人間はおそらく進歩していることでしょう。生きることそのものが一連の探求となります。自己自身に関する一生をかけての「実験」です。これは苦難も多いでしょうが、大きな喜びをもたらす研究でもあります。単に考えることに費やされる人生はなぐさみにしかなりません。

 もう一つの「人間の真の研究対象は人間である」の意味は、世界のすべては人間に内在してるといわれていますが、そのことを理解することではないでしょうか。外界を観察し、それを心で咀嚼し、外界に関する理解を育む。実際のところ、これは外界をきっかけとした自己理解に他ならないと思っています。

 外界には情報があふれています。インターネットもそうですが、インターネットだけでなく、家の周りの庭や街中を歩いていても、さまざまな情報が飛び込んできます。それらは来ては去るものですが、ある程度の時間をかけてそれらを心でしっかり噛み砕いて思索すると、レベルはさまざまかもしれませんが、知識が得られ、心に定着します。この知識は外界と内界をつなげる何かなのだと思います。またこの知識は本の知識と違って生きた知識です。おそらく人生で応用のきく知識でしょう。そして応用すべきでもあります。

 他にも「人間の真の研究対象は人間である」の受け取り方はさまざまなはず。現在学校で行われているような知識の収集に関する学習は、興味が続く間はいいのですが、そのうち多大な情報をかき集めることが大きな負担になってきます。生涯にわたって興味をひきつけるのは人間そのもの。50近くの年になってそういう気がしています。