語れるものと語り得ないもの

 

今日は語れるものと語り得ないものについて思うことを書いてみます。語り得ないものというと、有名なのはヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」という言葉です。これは彼の『論理哲学論考』の最後の言葉のようです。この言葉の言わんとすることは私なりの受け取りですが何となくわかります。言葉をはねつける領域があるのを私は感じているからです。先週、それはリアルなものだと呼びました。言葉は表象されたもの、表象する道具であって、表象される以前のものには届かないように思います。

 

さて、基本的にヴィトゲンシュタインの主張には賛成します。しかしながら私はサイババの話されたり書かれたものを長年読み続けましたが、それらは一般人にとっては語り得ないものについて語ったものでした。サイババを知る以前には語り得ないと思ってはいたけれども、実は語り得る領域というのが山のようにある、というのがサイババを知ったあとの私の実感です。今日はこのあたりのことを書きます。

 

タイティリヤウパニシャッドのブルグヴァリに次のような詩節があります。
プリティヴィ ヴァー アンナン  

アーカーショーアンナーダハ  

プリティヴャーマーカーシャ プラティシティタ 

アーカーシェープリティヴィー プラティシティター
(地元素は実際食物です。空元素は食物を食べるものです。空元素は地元素によって支えられ、地元素は空元素に依っています。)

 

私はこのウパニシャッドを長年唱えてきたのですが、地元素はある種語りえぬもののように受け止めており、空元素は語り得るあるいは思考が可能な空間のように受け止めてきました。私の解釈は独特かもしれませんが、つまり語りえぬもの(地元素)は食物であり、それは空元素によって食べることが可能になるということです。また思考が可能なのは語りえぬ領域(リアルなもの)によって支えられているからであり、リアルな領域は思考不能性として規定されるとも理解されます。

 

フランスの現代哲学者のフーコーは『知の考古学』という著書を残しています。私には西洋哲学は難解でしっかり読み込めないのですが、インターネットを検索すると「西洋の各時代ごとの知の枠組のありようと、その非連続的な交代の様相を明らかにするための手法を解説する」本らしいです。平たくいえば、時代によって知の様式が異なっていたというのが彼の歴史研究によって明らかになったということであり、そこにたどり着いた彼独特の研究手法を知の考古学と呼ぶようです。このフーコーの研究を踏まえれば、もしかしたら時代によって語り得るものと語り得ぬものの有り様、せめぎあり、割合に変遷があるのかもしれないと思うのです。ある時代にはあることに関して皆が考えることができるけれども、ある時代には別のことしか皆は考えることができない。それは流行りでもあるでしょうが、もしかしたら時代によってリアルなもの(地元素)と思考が可能な空間(空元素)の間に相互遷移、相互侵食があるのかもしれないと仮定したくなるのです。仏教には劫濁という言葉があり、それの基となる概念もインドにあるでしょうが、これは時の経過によって正法の時代、像法の時代、末法の時代へと変遷があり、時代が時代の意志として濁っていったという考えです。個人の意志を超えているわけです。大空が雲で覆われる割合はさまざまなように、時代には時代の顔があるのでしょう。

 

さて、語れるものと語り得ぬものに関して、それは時代だけによるのかあるいは人間がそれに関与できるのかという問題があります。私はごくごく気持ち程度は人間が関与できるのではないかと思っています。たとえば私は昨年2022年6月から7月にかけて内なる空間について何回か書きました。その1つはこちらになります。

aitasaka.hatenablog.com

 

ここでは、サーダナによって空間が浄化されること、思いと言葉と行動の一致によって空間が確保されることを書きました。それに加えて、諸聖典を読むだけでなくそこに書かれてある内容をある程度の期間にわたって誠実に実践し続けることも内なる空間を開発してくれるのではないかと思っています。つまりこの内なる空間は地元素(語りえぬもの)が空元素(思考可能な空間)になったものではないかと思うのです。森を遠くから眺めていても語れるものはわずかです。森の中に実際に足を踏み入れれば非常に豊かなことが語れます。御教えを実践するということはそういうことでしょう。一方逆に空元素(内なる空間)が地元素になるということもありえます。それは先程もいいましたが、時代性です。

 

今日本は少しばかり窒息しています。それは内なる空間が欠けているからです。それは語り得ぬもの(リアルなもの)に対して誠実な態度を見せなかったからでしょう。内なる空間の開発は新しい時代をもたらしてくれる、そしてこのことはどの時代においてもいえることだと思うのです。もちろん人間の意志を超えて時代は変わり続けもするのでしょうが。