2人に影響を与え10人を助ける

 

人によってはサイババの著書や御講和を読んでいると気づまりを感じることがあるかもしれません。高尚なことがたくさん書いてあるし、どの一つであっても生活に取り入れるのが難しく感じてしまいます。かつての私がそうでしたから。どの御言葉も誠実に受け入れなければならないのですが、実際に取り入れることのできるものはほんの少しで精一杯です。今は私は日々の義務を誠実に果たすことがサイババの御教えの95%くらいを占めているように感じています。義務を実践する上での障害を取り除いたり、どのような態度で義務を果たせばいいのかを参照するのに御言葉などに目を通しています。当たり前のことを当たり前に果たすということです。その生活の質を上げていけば人生はいいのでしょうが、それとは別にサイババにまつわる特有の使命に関係したいというのであるならば、それは奉仕ということになります。奉仕自体は人間の義務に含まれていますが、サイババは奉仕を単なる義務以上のものとしてさまざまに解説してくださっています。

 

1993年のsanathana sarathiに「帰依者一人ひとりが、それぞれ二人の人に影響を与えることができたなら、すぐに全世界が改善されるでしょう。」(『サイの理想』171p)とあります。この言葉とは別に、どこで読んだかは忘れましたが、「私は10人の人を助けよう、と決意しなさい」というようなニュアンスのことをおっしゃっていたような気がします。私は何かを読むときにブログで何かを書くことを前提として読んでいませんので、気になる言葉があってもそれを出典とともにメモしたりすることがありません。私の記憶に保存されるだけで、その記憶も時間とともに変容を被っている可能性は否定できません。それは承知しておいていただけたらと思います。今日書きたいのは、2人の人に影響を与え、10人の人を助けるということについてです。

 

まずは2人の人に影響を与えるということに関してです。一般的にはあの本がおもしろかったと人に紹介し、その人がその本を買って読んだとしたならば、わずかながらでもその人に影響を与えたといえなくもありません。自分の何らかの働きかけがその人に何らかの行動を促したのです。ならば、帰依者が人に影響を与えるとはどういうことでしょうか? ある人が何かあるいは誰かに帰依していて、その帰依の姿やありようが他の人を感化するということです。たとえばその帰依者の生きざまが、それを見る人にとって理想のようなものに映り、その生き方を手本にしようと思い、実際にその人の行動に変容が生じていたならば、帰依者が他の人に影響を与えたといえるかもしれません。私は30年ほど前に青山圭秀氏の本を読んでサイババのことを知りました。それによって私の人生は変わりました。私は青山氏に感謝しています。彼が自分をどう思っているかは知りませんが、しかし少なくとも私から見て彼がサイババあるいは何かの帰依者であるかはわかりません。特にその後の彼の著書を見ているとです。なので私は彼が帰依者として私に影響を与えたのかはわからないといえます。他にもその人が誰かあるいは何かの帰依者であるとは限らず、10人はいないとしても私に影響を与えた人はいます。帰依者が誰か他の人に影響を与えるということがどういうことなのかわかりにくいところはありますが、私は自分が帰依するお方の御教えをできる限り生活に取り入れることによって、そのこと自体が誰かに影響を与えることがあればいいなとは思っています。人生80年としてその間に2人の人に影響を与えればいいのですから焦ることはありませんが、しかしそう簡単なことではないことも分かっています。

 

次に10人の人を助けることに関してです。私はこれまで気持ち程度といっていいものですがホームレスの方に食事を捧げたことはあります。延べ人数は何百人かはいるかもしれません。そのホームレスの人が1日の飢えを満たす助けはしたといえるかもしれませんが、この程度の助けは何らかの形で多くの人が行っているものです。親は子の養育を20年近くはします。20年間の世話によって子は自立した人間になるかもしれません。それは明らかに助けといっていいものでしょう。子が老親に気を配り、その老親が安らかな死を迎えることができたとしたら、親から受けた恩はなかなか返せるものではありませんが、それでも何らかの助けであったといえるかもしれません。少なくとも助けというとき、その程度のことは念頭に置いておきたいと私個人は思うのですが、その程度の助けを10人の人に行うことができるかといえば、できるかもしれないし、結構難しいものといえるかもしれません。医師という職業についている幸運な方は、その医術によって多くの人を助けることができるかもしれません。ふさわしい教師も、その何十年にもわたるキャリアの中で何十人かの人に対して十分な程度生きる準備を与え助けたといえそうです。特別優れた技能がない一般の人にとっては、誠実な職業生活が自らが属する組織を支え、その組織を通じて社会に善をもたらすこともできるでしょう。

 

私は重い病気を少なくとも二つは経験しているので最低二人の医師に助けられてはいます。幼いころに小さな路地の交差点に飛び出してもう少しで車にひかれる危険な状況がありましたが、運転手の方の誠実な運転のおかげで命拾いをしました。特定の一人の名前を挙げることはできませんが、毎日食料を購入し食事を得られているのも誰かの助けのおかげです。私は少しばかり行政の制度を利用していますが、それもこれまでの政治家や行政関係者の方々のおかげです。もちろん親にも恩を受けています。他にも思い起こせば多くの人に助けられていることがわかると思います。そういう程度に私は人を助けることができているだろうか?と自問するならば、10人の人を助けることは一生の仕事といえます。

 

サイババの御教えに限らず、ほとんどの宗教の御教えというのは、当たり前の生活を日々送りなさい、そして時間やお金に余裕があるならば少しばかり他の人を助けなさい、というところに集約されると思うのです。もちろん人生の究極の目的は忘れてはいけませんが、日常生活においてはこのことを頭に入れておけばほぼ十分な気はします。私は「2人の人に影響を与え、10人の人を助けること」がかねてから頭にあったので、それ以上のことをあまり目指すことはありませんでした。若いころは少し頭が肥大していましたが、それも今の年齢となってはかなりの程度落ち着いています。ありがたいことです。