愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

愛と奉仕

 

先週は愛も無属性のものを指し示す言葉の一つではないかと述べました。この愛についてもう少しばかり触れておきたいと思います。先週も書きましたが、愛は誰かあるいは何かに向けられると愛の普遍性が制限されます。たまにならばそれもいいでしょう。しかし四六時中愛が制限され続けていると、愛は愛であることをついには失ってしまい、愛のない人生を送らざるを得なくなりかねません。人間が肉体を維持するには食物が必要でありますが、それと同時に水も必要です。ただの水ではいけません。きれいな水でなければなりません。泥水も水ではありますが、そういうものを取り入れると体は病気になってしまいます。愛に似て、水は他の物質に比べシンプルで属性を感じにくい物質です。そのような水は肉体を維持するのに不可欠です。食料がなくても人はある程度の期間を生き延びることができますが、水がなければ短い期間で死んでしまいます。そのように愛のない人はたちまち死に至ることでしょう。人がきれいな水を確保して置かなければならないといけないように、清らかな愛も同様に確保して置かなければなりません。

 

愛を特定の人に制限したり、特定の物に制限することは、貴重なお金をタバコや一度でも袖を通すかわからない服を買って無駄にするようなものです。人は肉体を維持しなければならないので、食物や体を守るのに必要な衣服を買うのはまったく問題はありません。同じく、人間としての生活を維持するために、自らの肉体や家庭、関わりのあるある程度の人数の人と適切で良好な関係を維持するためにそれらを愛するのも問題ではありません。支出ばかりではお金は減っていきますので、収入が必要で、同様に愛も使ってばかりいると減っていきかねませんので、愛を育んだり維持する必要はあります。

 

愛を育むための行動様式はサーダナ(霊性修行)と呼ばれます。瞑想、神仏の御名を唱えること、奉仕、義務を果たすことなどです。例えば瞑想は意識を雑念で汚さないためのものです。神仏の御名を唱えるとは神仏のことを思うことです。奉仕とは奉仕の対象の内に愛する神仏の姿を思いうかべて行為を捧げることです。つまり愛を育むため、維持するためには人間ではなく愛に等しいといってよい神仏を思うことが必要となります。愛は神仏とこそ釣り合いがとれるものです。愛を人間や物に制限してばかりいると愛は少しずつ枯れていきます。

 

水は淀むと汚臭を放ちます。愛も淀むと汚臭を放ちます。川の水は絶えず流れ続けているがゆえにいつも新しいように、愛を新鮮な状態に保ち続けるにはそれを流し続けておく必要があります。愛を流し続けておくために課せられるものが奉仕です。サイババは「愛を輸入して奉仕を輸出しなさい」とどこかでいっていましたが、愛に奉仕という形を与えて捧げることで愛は流れ続けることができます。奉仕は人への奉仕、動植物への奉仕、社会への奉仕などがありますが、奉仕と良い行為の違いは、奉仕は奉仕の対象の内に愛する神仏の姿を見ますが、良い行為はそうではないということです。人への奉仕は相手の内に神仏を見るがゆえに、つまりは本質的に神仏への奉仕であるがゆえに愛が制限されることはありません。また奉仕の特徴は行為の結果を求めないところにあります。奉仕を捧げることで行為を促す愛は自らを離れ相手へと流れていきます。奉仕によって愛は流れ続けることになります。

 

ブラフマン(神)を知るものはブラフマン(神)になる」とインドではいいます。瞑想や御名を唱えることで神を思う努力をし、奉仕をするときも相手の内に神を見るようにすることで、つまりは神を思い続けることになり、そういう人は最終的に神となります。神を愛する人は神になります。鉄片が磁石にくっついていると鉄片自体が磁石になるのと同じことです。奉仕は神を思うことを促して愛を育み、奉仕はそれを捧げることによって愛を流し続けます。そして奉仕は神への愛の表現なのですから、奉仕に携わる人は最終的に神になります。愛と奉仕は電極のマイナスとプラスのように両方が必要です。マイナスとプラスの片方しかなければ電気が流れないように、愛だけあるいは奉仕だけでは完全ではなく、愛のある奉仕、奉仕へと昇華される愛が人生の成就へと導きます。清らな水を毎日口にすることができれば命を保てるように、愛を毎日育み維持しそれを行為の形に表しておけば、結局のところ人間は平安で幸せに過ごせるものです。時にニュースで見かける残酷な世界の断片は、この愛と奉仕が世界に欠けていることを示しています。地道な努力が必要でしょうが、人々が愛と奉仕を選択するならば、世界は少しずつよくなっていくことでしょう。