愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

カルマの引き継ぎ

 

私を真宗にいざなったのは妙好人たちであり、妙好人を最もよく私に紹介してくださったのは、民藝運動で有名な柳宗悦氏でした。何冊か柳宗悦氏の著書を手に取ったのですが、その中でおすすめなのが『柳宗悦 妙好人論集』(岩波文庫)です。禅に関する本を読むと頭がこんがらがる(混乱する)ことが多く、申し訳ないですが、禅に関係する人とは思考が合わないと感じます。一方柳氏の妙好人に関する文章はほとんどすっと頭に入ってきます。私は文化というか生活の質というかそういうのが柳氏や真宗に近いのかもしれないと自然に思わされます。今日はこの『柳宗悦 妙好人論集』の一部を引用し、それに関連してカルマのことを書きたいと思います。

 

この『柳宗悦 妙好人論集』の中に「受け取り方の名人」という文章があります。長いですが一部を引用します。
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豊前国中津郡矢富村に新蔵という極貧の人がおりましたが、稀有の信者でありました。ある日の事、近くに相撲がありまして、新蔵も見に出かけました。ところが一人の相撲取が投げられて大変な怪我をいたしました。仲間たちが話し合いますには、こんな怪我人が出来たのは、定めし汚らわしい人間が近くにいるからだろう。探し出せというので、手分けして探しますと、ついに破れ衣を着て髪を藁で結った、穢多のような風情の一人を見出し、ああこの男のためだという事になり、大勢して新蔵を殴るやら、蹴るやら、ひどい目に合わせました。新蔵はやっとのことでその場をのがれ、家に戻るや嬉しそうに女房に申しました。
「今日は近頃にないありがたいご意見を受けて参った」
すると女房は、
「それはそれはお仕合せなこと、早く私にもおすそ分けしてくだされ」
と申します。新蔵は言葉をついで、相撲場でかくかくの事があったと一部始終を話して、
「この世で穢多と間違えられるような身が、来世では阿弥陀様と同体にならせていただけると約束していただいておるのに、歓喜の心もうとうとしく、毎日を送るこの私にご意見をくだされたのだと思うと、喜ばずにはおられぬではないか、お前も一緒に悦んでくれよ」
といい、夫婦もろ共、己を忘れて歓喜雀躍したと申します。
(中略)
昔、越中赤尾の道宗が、篤心なものだという評判が界隈に広まったとき、一人の真言宗の坊さんが、どれ一つ試してやれと思って、たまたま草取りをしている道宗を見つけ、後ろからいきなり蹴飛ばしました。道宗はよろめいて倒れましたが、ただ「なむあみだぶつなむあみだぶつ」といって、また草刈りをはじめました。それで二度蹴飛ばしました。道宗はまた倒れましたが、なおも黙っております。それで坊さんは、
「お前は他人に蹴られて、なぜ怒らぬのか」
と尋ねますと、道宗は、
「いいえいいえ、私は人から蹴られるような悪者でございます。蹴っていただければ、それだけ前世からの悪業をいくらかでも償っていただけるわけで、誠にありがたく存じます」
そういって称名しつつお礼を申しました。このお坊さんは道宗の答えに大変心を打たれ、ついに真宗に帰したと申します。
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私は普通の人間なので、いきなりわけもわからず殴りかかられたり蹴られたりすると心の底から怒りや悲しみが湧いてくるでしょう。私だけでなく世の人は、普段ウソを頻繁につく人でも面と向かってウソつき呼ばわりされると腹がたつようです。人はみな自らの尊厳に知ってか知らずか気づいているからだと思うのです。しかしながら豊前の新蔵や赤尾の道宗のような妙好人として語り継がれる人たちは、不合理なひどい目にあってもそれに対して怒りを示さず、自らの罪深さや仏法の救いへの信仰が深いため平常心で受け止めることができます。このいいようのない人間の深みが妙好人の魅力です。並の人間にできないことを容易にやって見せます。これはおそらく全託に至っている人の姿なのだと思います。全託に至っているかどうかはいつも心が安らかかどうかを見ればわかるといいます。私もそういうまったき全託の境地に至りたいと思ってはいます。

 

さてこの新蔵や道宗の高い境地はそれとして、私が思うのはカルマ(行為の結果)についてです。人は行為すればその行為の結果に直面するというのがカルマの法則ですが、人が犠牲を払う時には、つまり上記の新蔵や道宗のようにひどい目にあっても思いですら仕返しせず穏やかに受け取る時には、カルマ=行為の連鎖は断ち切られるのではないかということです。道宗は「前世からの悪業を償う」とのべましたが、確かに前世からの報いとして足蹴にされたのでしょう。しかし仕返ししなかったことでカルマには区切りがついたと思います。一方で道宗を蹴った真言宗の坊さんはカルマ=行為の報いを新たに作り出しました。彼は将来その報いを受けなくてはならないでしょう。ここでわかるのは、道宗が犠牲を払ったことによって、一つ乗り越えなくてはならない課題が道宗から真言宗の坊さんに移されたということです。人間は何らかの課題を抱えているが故にこの世に生まれてきますが、道宗はその課題の一つを克服、つまりテストの一つに合格しました。それは犠牲によってなされました。子孫をもうけることで血を代々継承していくように、犠牲はある種の課題を人から人へとつないでいく働きをもっているのではないかと、私は最近思ったのです。カルマの法則はとても深遠ですので、私のこの仮説が正しいかどうかはわかりませんが、少なくともやられたらやり返せではカルマの連鎖は永遠に終わることはありません。人がこの世を卒業するには犠牲は不可欠であるとされていて、もしかしたらカルマ=課題の継承がこういう機会に行われているのではないかと思ったので今日はそれについて書いてみました。実際のところは私にはよくわからないのですけれども。