愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

お寺参りをして2

 

先週に続き、お寺参りをした際に聞いたこと、思ったことを紹介したいと思います。

 

かつてこのブログで書いたことがあると思うのですが、私はいわゆる妙好人の話を読んだり聞いたりするのが好きで、私の好みは源左なのですが他にもいろいろ有名な方々がいます。その一人に才市という方がいて、源左も才市も共に山陰の方です。源左はどちらかというと動の人で、才市は静の人です。それぞれ詳しいことは検索なりして調べていただけるといいと思います。ある宗派が本物かどうかを測る目安は宗祖のすばらしさであると思う人もいるでしょうが、一般人にはどの宗祖もすばらしく見えるものです。宗祖のすばらしさはそれでいいのですが、もう一つ信者の方々が本物かどうかもその宗派について多くを語ります。師匠のすばらしさを比べるのに最も簡単な方法はその弟子を比べてみればいい、とはよくいわれることです。真宗のすばらしさは妙好人といわれる奇特な信者の方々を抜きにして語れないものと私は思っています。

 

さて、この妙好人の一人である才市の言葉が御法話の中で取り上げられました。一字一句厳密ではないのですが次のような言葉です。「称名に他力も自力もない。すべて他力です。ただ疑っている人の称名が自力というだけです。」南無阿弥陀仏と口をついて出てくる称名は、本来すべて阿弥陀様がその人の口を用いて唱えているだけで、つまりはすべて他力なのですが、このことを疑っている人にとっては自力のように見えてしまうというわけです。この才市の言葉は真宗の教義の奥深いところを述べています。南無阿弥陀仏と唱えていて、それが自力のように感じてしまう人は、どこかで阿弥陀様を信じていないのでしょう。

 

この才市の話を家に帰って振り返っていると、このことは称名に限らず他の行に関してもいえそうな気がしてきました。禅宗では何を信じ何を目的として座禅をするのか私は知らないのですが、座禅を自分がしていると思っている間は自力です。私は瞑想をしていますが、瞑想とは瞑想をしているという意識がなくなるまでするものです。それと同じことが座禅にいえるなら、座禅をしているという意識がなくなったときにはおそらく自力の感覚はないはずです。そのときより深い平安があるはずです。天台宗真言宗に関しても何を信じ何を行っているのかはしりませんが、何かを真に信じて行っている際には自力の感覚=エゴはおそらくほとんどないはずです。日蓮宗では題目を唱えているようですが、こちらに関しても何を信じ何を目的としているのか私は知りませんが、疑っているときはエゴの感覚は強いことと思います。キリスト教神道イスラム教などについてはなおさら知りません。

 

才市は下駄などを作る職人であったようです。手で仕事をしながら口ではいつも南無阿弥陀仏と唱え、そして時に何かひらめくことがあったのでしょう。その時の気づきを多くの詩に残しています。詩といっても南無阿弥陀仏に関することばかりです。鈴木大拙氏の著作、『日本的霊性』だったかどうか忘れましたが、に才市のことが取り上げられています。鈴木氏は才市を日本における霊性の一典型としています。私の言葉でいえば帰依者の一典型ですが、どちらにしろ才市はそちらの方面で特異な方でした。彼にとって最大のテーマは他力の一語であったと思います。彼のような妙好人は御教えを実際に生きた方々で、現代の宗教学者の一部が宗教を思考の対象としているのと異なっています。宗教においては御教えを生きることの方がはるかに大切であり、そのことがあまり日本に広まっていないのは少し悲しいところです。

 

 

他力と自力は日本に独特の概念なのかどうかは知りませんが、私はこの二語は世界の諸宗教に一つの光を投げかける切り口であると思っています。自力がよくないというわけではないのですが、私の人生経験からいえば他力に多く惹かれます。