愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

「バーラティー バーラタム」より

 以前紹介したことがあるこちらのサイトの御講話をたまに丹念に読むことがあります。その中の一つ1973年4月4日の「バーラティー バーラタム」という御講話に何箇所か気になる文章があったので、それについて今日は触れたいと思います。

 「人生はカルマです。体は行為の場(カルマクシェートラ)です。」
 カルマとは行為を意味しますが、それは呼吸することや睡眠をとること、はたまた意識しないで行われる血液の循環なども意味しています。まさに人生は生まれてから死ぬまでがカルマの連続です。心臓が止まれば人は死にますが、それは人生におけるカルマの終わりを意味しています。
 これまでの人生を振り返って思うのですが、カルマとは大なり小なり肉体に住む魂への打撃です。喜びも苦しみもすべて魂に何かを刻印します。魂は黄金にたとえられますが、魂への一連の打撃は不純物の混じった金から不純物を取り除く精製の過程のような気がしています。

 「あなたの視覚が、疑いや、慢心や、偏見によって壊れていたら、あなたの中にも外にもいる神があなたには見えません。」
 少しずつわかってきたのですが、目を開けたときに目の前にあるものは神様であって、目を閉じたときに感じる内在の意識も神様。真理はおそらくそれほど単純なもの。
 しかし人にはいろいろあって、優しく愛に満ちた人を神様と見ることは優しいけれど、そうでなければ難しくもあります。他人を見て多くの欠点が見えることがありますが、なぜそのような人が神様なのかという思いがありました。しかし神様はそういう振る舞いをしたいだけなのだと最近気づいてきました。(要するにすべてはドラマ)
 また意識が澄んでいればいいのですが、意識が汚れているとその意識そのものを神様と思う余裕もありません。
 すべては神様と受け入れようとしても、それを拒絶しているのは、単に私たちの思考(疑い、慢心、偏見)のせいでしょう。

 「自分が配置された場所から逃げ出すのは臆病者です。」
 本当にひどい境遇だと逃げ出したくもなりますが、多少の不快ならば、そこにい続けることは長い目で見てその人にとってよいことのはず。たとえば、私の知っている在日インド人はなぜ日本人は親と暮らさないのかと疑問に思っているようで、実際霊的な道を歩んでいると自称する人でも、親元から離れて自分の好きなことをしている人がほとんどです。
 虐待のひどい親から子を守ること、ブラック企業はさっさと辞めること、その他異常な環境をさけることは自分(やその他)への非暴力の実践ではありますが。

 ほんのいくつかの文章に対して私の思いを述べましたが、これはあくまでも私の体験からきた考えです。霊的な文章はさまざまな人によってさまざまに解釈できるものです。それは頭で考えても理解できるものではなく、自らの人生を振り返って、体験を適用させることで解釈を重ねるものです。もしある文を理解できないと感じるならば、それに関する体験が不足しているからであって、人生を重ねて何年かして振り返ると理解できることがあります。霊的な文章を手にして、人生での体験を振り返り続けることで、自己理解が深まります。もし自分の人生が納得できない人がいても、このような探求を重ねていくことで、人生の受容ができるようになると思っています。
 一日の寝る前20~30分でも、そのような思索の時間をもたれてみてはと思います。