今日は憐れみについて書いてみたいと思います。とはいっても考えがまとまっているわけではなく、随想のようなものになると思います。
なぜ憐れみについて書いてみようと思ったかといえば、私には怒りという欠点があるのですが、しかし人によっては怒ることがほとんどない人がいるようで、怒るより憐れんでしまうとその人が意見していたからです。そうなのかと思いました。実のところ私は50年以上生きてきて人を憐れむということをほとんどしたことがありません。誰かを憐れむとき、その相手を自分より下の人だと思わないといけないからだと思います。また私が人生で関わってきた多くの人も憐れみを示す人はあまりいなかったような気がします。江戸時代に生類憐れみの令というのがありましたが、しかし憐れみというのはそれほど日本人には馴染みがなく、むしろキリスト教と馴染みが深いかもしれません。それというのも、憐れみについて調べていたら、キリスト教者の説教に多く行き当たったからです。
私は人に接するとき、大概どんな子どもやどんな境遇の人であっても最低限自分と対等の人かあるいは敬意をもって見るか、あるいはその人のうちに神を見るように心がけています。ほとんどの人間関係はそれでうまくいっていて問題はないのですが、たまに自分の予測がつかない人がいて、常識から外れた対応をされることがあります。数回ならばやり過ごすのですが、それが何度も何度も重なると、人間がまだ未熟なので、イライラしたり腹が立つことがあるのです。誠に私の勝手でしかないのですが、敬意を示している相手が軽蔑に値するようなことを繰り返すと相手が許せなくなってしまうのです。すばやく気持ちを切り替えて相手を軽蔑するようなことは私はしてきませんでした。相手を尊重したまま何とか問題を解決しようという努力を重ねることがほとんどでした。しかしこの態度がときに大きなストレスになっていたのは間違いありません。
一方怒りという感情をほとんどもたない人の中には憐れみという感情をもつことがあると知りました。基本的に憐れみは相手を下に見るという前提があるような気がするのですが、それは私の受け取りの問題で、憐れみというのはそういうものではないという人もいるでしょう。キリスト教では神は罪を犯す人間を憐れむようで、神と人間とならこの場合憐れみという言葉は適切でしょう。聖書に書かれた神のご指示には、間違いを犯した人を7の70倍赦せとあるようです。これも状況によってはとても困難なことです。しかし相手を憐れむのならばもしかしたら可能なのかもしれません。
他人に対して無礼な態度を取る人自体が相手を下に見ていることでしょう。つまり相手を対等な人間だとかあるいは相手の内に神を見ていないわけです。この相手の態度自体は憐れんでもいいかも知れません。しかし私は誰であってもその人の本質が私より劣っていると見ることは少なくとも心理的にできかねます。相手が私を人間としてみていないのならば私が相手を人間として見なくてもいいのかも知れませんが、そうなると争いが生じる可能性が高くなります。
正直にいうと怒りという感情は非常によくないとわかっています。一方それに比べて憐れみはどうなのかということです。相手を下に見る態度も同様によくないとは思います。しかしそうでない憐れみというのがあるのかも知れません。相手の態度を悲しみを込めて受け入れるものとしての憐れみ。そうなると憐れみは慈悲に近くなります。怒りがエゴによって生じることは間違いありません。私が怒るのは大概かなり大きな何らかの損害が生じそうなときです。自分の損害の可能性を受け入れて、かつ慈悲のようなものとして相手を憐れむのは今の私には少し難しい課題かもしれないと思ってしまいます。しかし世の中には怒りを示さない人が少ないとしてもいるのですから、私もできるだけ怒りを克服する努力をしなければいけません。そのためのキーワードとして最近憐れみについて少し考える時間がありました。憐れみが積極的に徳であるとみなせるようになれば、私は憐れみを育むようにしたいと思います。