愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

人間的価値2

 

これまで人間的価値について少しだけ触れたことがあります。これまで人間的価値について、1.人間の構成要素に価値を与えること。2.道徳、倫理、霊性。3.人間が人間であること。であると私は定義してきました。英語ではhuman valuesです(サイババが多用する言葉です)。現代は特に経済の領域において「価値」という言葉が用いられますが、私は経済において用いられる価値という言葉に関して、「商品やサービスの価値=それを生活に取り入れることによって得られる何らかの体験」であると考えてきました。その定義に関連していえば、人間的価値は(必ずしも商品やサービスを利用しなくても得られる)人間であること自体によって得られる何らかの体験と考えることも可能でしょう。特に平安や至福が得られるための人間としての生き方を人間的価値と呼ぶことができます。

 

さて久しぶりに人間的価値について考えてみたのは、次のようなツイートを見かけたからです。

「なんとなく。
女性は「自分から女を引いても人間が残る」感覚の人が多くて。
男性は「自分から男を引いたら残るものがわからない」感覚の人が苦しんでるような気がする。」(佐川・抜け首・なん)

 

このツイートをした佐川・抜け首・なん氏は多分女性のようです。このツイートを読んでどう思われるでしょうか? 私は男性ですが、なるほどうまいこと表現しているなと思いました。実際には女性が「自分から女を引いても人間が残る感覚」をもっているか、もっているとしてどれくらいの割合かはわかりません。あくまでも私の感じ方からすると、男性の中には「自分から男を引いたら残るものがわからない」人はまあいそうな気はします。たとえば、男性ですと男性であることによって、女性に比べて進学を許された人は多いでしょうし、男性だから定職についてお金を稼ぐために職業生活を長年勤め上げたという人も多いでしょう。家庭内においても、男性だからあまり家事をしなくても許されると考えてそう振る舞った人もいるかもしれません。これらのことを多くの男性は多かれ少なかれ自覚していると思います。つまり、もし自分から男であることを差し引くとすれば、学歴も職歴も否定しなくてはならないかも知れず、また家事を女性に比べてあまりしないできたことを正当化しにくくなります。そうなると、人生のかなりの部分が取り除かれて、結局のところ「自分から男を引いたら残るものがわからない」感覚をもつ人がいてもおかしくないということになります。

 

私は女性ではないので推測ですが、女性が「自分から女を引いても人間が残る」というときの女とはジェンダーも当然ありますが、セクシュアリティ、生物学的な女性性のことを指していそうです。男性にとっての男にも生物学的な男性性はありますが、それよりもジェンダーとしての男性性によって人生のかなりの部分が規定されているように私個人は感じます。しかし男性であっても女性であっても人によっては別の感じ方があるだろうことは否定しません。

 

私が今日取り上げたいのは、「自分から女を引いても人間が残る」というときの人間を女性も男性も感じていなくてはならないだろうことです。その実感をもたらすものがいわゆる人間的価値に関する教育、つまり本来の教育の目的です。人間が自分が人間であることを自覚できなければ悲劇としかいいようがないわけです。

 

私個人は男性としてのジェンダーセクシュアリティ、生殖の性としての男性性とは比較的縁の薄い人生でした。若い頃に病気をしたのが主な原因ですが、男性として生きるよりも人間として生きていかなくてはならないことが多かったと思います。また恵まれたことに人間的価値について学ぶ機会が得られたことにより、私のアイデンティティーは男性であることよりも人間であることの方に近いでしょう。実際のところ、もし「自分から男を引いたら残るものがわからない」人や「自分から女を引いたら残るものがわからない」人は、人間的価値あるいは人間について深く学ぶべきだと思います。誤解をされそうなので書くのに少し気を使いますが、50歳をすぎれば男性も女性も生物学的(つまり生殖的)にはほとんど価値がなくなるとされます。しかし人間は動物のように生きるために存在しているわけではありませんので、生殖的に価値がなくなっても人間としての価値は影響を受けません。人間は動物のように生きるためにあるのではないということを理解するために若い時期から人間的価値、人間性について学ぶ必要はありますし、思秋期以降の存在意義を見失わないためにも、ある程度年を取ってから人間的価値、人間性について学ぶ価値は十分あります。自分を人間であるというならば、当然人間についての理解は必要なのですから。