愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

教育=第2の子宮

人は母親の胎内から生まれ出た日を誕生日とします。それは肉体が生まれ出た日です。世界中でその日が祝われています。一方で肉体が母親の胎内から生まれ出ただけでいいのかという問題はあります。現代の世界の窮状を考えた時、人間が人間にふさわしく育てられていないのではないかという疑問はあっていいでしょう。姿が人間に見える存在を内実も人間にふさわしくすることが教育といえます。現代の教育は競争を煽られていて、人間ではなく競走馬を育てているに過ぎないという意見があるくらいです。
 
教育は第2の子宮といっていいのかもしれません。人がその中で守られ、人間としての内実を育む機会です。人間としての内実とは何か。私の見解は、人間に与えられている器官を正しく用いることです。人間には舌が与えられています。舌を正しく扱うとは、真実を語ること、優しく話すなどをして心の内容を適切に伝える方法を身につけること、清からな食物を取ることなどです。人間には体が与えれています。体を正しく扱うとは、勤勉に働くこと、義務を果たすこと、自分のことはできるだけ自分ですることなどです。人間には心・頭脳が与えられています。心・頭脳を正しく扱うとは、心が適切に機能するために平安を保つすべを知ること、肯定的な思いを育むこと、適切に計画することなどです。舌と体と心は人間の道具ですが、それらを束ねて用いる真の自分=自己があります。その自己にまつわることも大切です。自分を信頼すること=自己信頼、自分に関する正しい認識に至ること=自己認識、自らの力にまず頼ること=自己努力、自分から自分の本質でないものを取り除くこと(汚れを取り除くこと)=自己犠牲などなどです。自己=セルフの特性・本質である愛によって、舌・体・心の全体性を確保すること。以上は自分にまつわることですが、他の存在、つまり他者や社会、自然との関係においてふさわしい振る舞いを身につけること。このようなこと全体が私の考える人間の内実というものです。今挙げたようなことが有機的に組み合わさって価値のシステムが作られます。人間の器官である舌や体や心を正しく用いるということ自体が、それらに価値を付与するということです。ちなみに知識やさまざまな物やお金を正しく用いることはそれらに価値を与えることであり、経済的価値にも通じます。
 
私は幼い子どものままごとが好きで、見るだけでなく共に遊んでいました。人生経験の少ない幼い子どもたちにとって、ままごとは価値の模擬実践ですし、自らの内なる心が満足できるまでままごとを繰り返すことで何かを獲得しているのだと思っています。子どものままごとはときに愚かに見えることもありますが、このままごとを幼い時にきちんと行っていない人は、大きくなってままごとをしだすと思います。今の日本の現状がそういう有様です。50歳、60歳、あるいはそれ以上年をとった人たちがままごとを繰り返しています。幼い時にままごとを行い、ひいては価値システムを若い時期に構築することがいかに重要かということです。
 
価値のシステムを身につけるには、それに関する話を山ほど聞いて、その話に含まれている価値を実際に実践している人たちと共に過ごしてそれを手本とし、真似て一つ一つ身に付けるしかないのだと思います。親の子に対する愛は他の愛と比べることのできないほど深くはありますが、一人の人間としてみた場合、親にも欠点はあるもので、それを補うものとして親類や教師たち多くの他の大人の手本が必要になります。教師たちも欠点を持っているのですが、それぞれに長所があるでしょうから、多くの人がさまざまな価値を互いに補い合うことで、彼・彼女らに触れる子どもたちが総合的に育まれます。
 
子ども時分に多くの話を聞き、多くの手本となる人と接すれば、価値=人間の構成要素を正しく用いることに関する知識の蓄積ができます。聞くところによれば、電話で聞く話し相手の声は本当の相手の声ではなく、何千種類もの音声のデータベースの中から話者の声に似たものを取り出して音として再現しているようです。それと同じように、多くの価値に関する蓄積が心の中にある場合、教育課程を終えたあとの様々な人生の場面でそれを取り出して近似することができます。それでもどう振る舞っていいかわからない状況に出くわすでしょうが、もし神に真摯に祈り問いかけるという習慣があったり、内なる良心の促しに沿うことを学んでいたり、あるいは全託するという態度が身についていれば、どのような場面においても何とか対応できそうです。つまり人間として一生を過ごすことができそうです。
 
教育という第2の子宮で育まれ、成人することで第2の誕生を果たす、こういう人間の受け取り方があってもいいと私は思うのです。