今は大分減りましたが、かつて若かりしころは、何か尊い話を聞いたり、読んだりしたとき、それに対してああやこうやと批判というか意見というか心の中でいろいろと考えたり分析したりして、話の内容を素直に受け取るまで時間がかかる人間でした。しかしながら、そういう心の中のおしゃべりというかそういう吟味がほとんど何ももたらさないということを年を重ねるにつれ理解できるようになってきました。
同時に、たくさんの本や文章を読み込むことも減っていきました。そこに書かれていることが価値あるものと認めれば、それを少しでも自分の身につけるように努力したいのですが、時間の関係でそれもなかなか進みません。とういうわけで、今はほんの少しばかりのことを読んだり聞き、そのわずかばかしのものの、さらにわずかな部分を実行に移すようにしているような感じです。
読むことだけでなく、人の話で心に触れるものも時にあるのですが、それもほとんど身体を素通りするだけのようになってきました。だらしないといえばだらしない状態です。
源左はお坊さんの説法を計(はか)らいをもって聞くのではなく、自分を空にして、そのまま心に何かがぶつかってくるままにしていたように思われます。ただ聞く、ただ名号を唱える。そして何かの作用に身をゆだねているようです。いや身をゆだねるという意識もなかったのかもしれません。
霊的な活動だけでなく、すべての仕事を身や頭を空(から)にして何かが自分を動かすままに活動する、自分と他人の関係についてあまり気にせず、集団の中で割り当てられた役割を果たす。ただ、それをしている。そういう状態は人間にとって目指すべき姿なのではないかと最近強く感じます。
自分という存在が何かの一つの記号になってしまった状態です。
私の師はいいます。
「あなたは微笑む花、瞬く星々として現れるのです。あなたに何かを欲しいと思わせることのできるものが、この世に何か存在するのでしょうか?」
ここ最近あまりに暑くてボーっとしているのもあって、このようなことを思いついてしまいました。思考が停止している状態、ただのただになった状態。暑さに苦しんでいるとはいっても、結構幸せを感じます。