常識を育む

 暑い日が続きます。最近は昼間に外で歩くのが苦行のようですね。皆様涼しくしてお過ごしください。

 少し前におもしろい言葉を聞きました。「世の中リテラシー」という言葉です。リテラシーとは「(何らかの形で表現されたものを)適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する」という意味らしいのですが、世間では読み書きそろばん(計算)の能力のことやネットリテラシーという使われ方をしています。「世の中リテラシー」とは、多分お金との付き合い方に関する基本的なことや、選挙で投票する際の基本的な考え方のことや、生活に困った際にどうすればいいのかという実際的な知識のことなどのことをさすのではないかと思いますが、私が読んだ文章の中では、日本人は世の中リテラシーが欠けているという使われ方をしていました。

 ところで常識という言葉があります。常識には二つの意味が合って、一つは多くの人が知っている知識のこと(コモン・ノレッジ:共通の知識)で、もう一つは多くの人に受け入れられる推論と判断(コモン・センス:共通感覚)であるとされます。そして誰か外国人が言っていましたが、日本人には常識(コモンセンス)が欠けているらしいのです。
 日本人に世の中リテラシーが欠けているという文章を読んだとき、この日本人には常識(コモンセンス)が欠けているという話を思い出しました。

 私の周りだけなのかもしれませんが、何に対しても物事の解釈は自由で人それぞれだと主張する人が結構います。その人たちのいうことはわかるのですが、それでも、社会に受け入れられた一般的な推論と判断の形式=常識も大切なのではないかと常々思っていて、この常識が力をもっていながゆえに多くの日本人がちょっとしたことに悩み続けているのではないかという気がしています。

 常識を育むのは簡単なようで難しい課題です。現在学校では教えません。親は親、子は子で話が通じ合わないことがあるように、多くの家庭でそれが伝達されていないのではないかと感じています。

 欧米人は自由を主張しますが、しかし社会が維持されているのは、キリスト教に裏打ちされた常識が力を持っているからだといわれます。
 日本人も江戸時代までは論語などの素読をする人が多く、たぶんそれが「常識」の役割を果たしてきたのではないかという気がしています。
 人はどうやって一般に通じる思考=推論を鍛えるのでしょうか? 多分社会に広まっている宗教がその役割をかつて果たしていたのだと思います。

 このブログでは何度もマントラについて書いてきましたが、このマントラを繰り返し唱えて熟考することも、世間に通じる推論と判断を鍛えてくれそうです。

 難しい本を読むより、価値をたたえた、比較的わかりやすくても深い内容の文句の意味を探っていく、私はそれを教育に取り戻して欲しいと思っています。