愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

神を喜ばせる

 サルヴァカルマ バガヴァッドプリーティヤルタム
(すべての行為を[全託の精神で]神を喜ばすためになしなさい)

 1ヶ月ほど前に、選択を迫られたときには沈黙を選ぶのがいいという内容のブログを書きました。私は実際そうしています。しかし他にも選択を迫られたときの道の選び方があります。それは「自分の行うことは神を喜ばせるか」という選択方法です。


 これはAという選択とBという選択を迫られたときに、どちらが神を喜ばせるかを考えてABかを選ぶことです。わかりやすい例で言えば、嘘をついてごまかし人を騙すか、正直に語って状況の推移を見守るか迷ったとき、どちらが神を喜ばせるかということです。(状況にもよりますが)おそらく神が喜ぶのは正直に語ることだと思うのです。


 神を喜ばせようと心掛けている人はいます。自分は規律の厳しい霊的な人生を歩むのは嫌いだけど、神様が好きでたまらなく神様が喜んで下さることをしたいと彼らは願っています。実際には、神が喜んで下さることをすること以上に霊的なことはないのですけれども。ですから、それができる人にはお勧めの道です。


 しかしながら、私は「神が喜んで下さること」を選ぶことができません。なぜならば、何をすれば神が喜ばれるか私には十分にわからないからです。私は日々淡々と生きていますが、例えばさまざまな仕事や習慣になったことを行うとき、それらが神を喜ばせているかよくわかりません。朝瞑想をしますが、瞑想が神を喜ばせているでしょうか? 私自身はそれで平安を確保していますが。顔を洗って歯を磨きますが、それが神を喜ばせているでしょうか? 汚くしているよりはきれいにするほうがましでしょうが、一つ一つのそういう作業が神を喜ばせているか、よくわかりません。神が喜ぶから歯を磨くという思考回路がないのが現状です。健康的な習慣を身につけてしまえば、それは習慣ですから、半ば自動的に行われます。しかし、新たな習慣を身につけようとする際には、それが神を喜ばせるかどうかを基準にすることはできるでしょう。


 正直に言えば、インターネットに関わることは神を喜ばせるとは限らない、と私は心の中で思っていて、買い物の便宜や世間の風を感じる一つの接点という現代の必要悪としてそれに関わっているところがあります。ゴミの多く出る生活習慣などについても同様です。現代的な生活を送っていて、その上でいつも神を喜ばせることは難しいと感じています。


 愛を選択するというのは、神を喜ばせる道ではあるでしょう。あるいは、自分の(感覚ではなく)良心が喜ぶことをすることは、良心は内なる神の反映であることを考えれば、神を喜ばせながら生きることではあるでしょう。そういう観点から、神を喜ばせることを人生の基準とすることは十分可能です。また「どういう行為が神を喜ばせるのか」自体が一つの大きな探求です。


 個人的には心がより騒がない沈黙の道を選ぶことが私の好みなのですが、人の適性によっては神を喜ばせるように生きることで正しい道を歩んでいくことのできる人もいると思うのです。