理智鞘2

 かつて平安時代には宮廷の女性は十二単を着ていたようですが、真の自己=アートマは五重の衣服を着ているとされます。かつて何度か書いたことがありますが、それは五つの鞘と呼ばれます。食物鞘、生気鞘、心気鞘、理智鞘、至福鞘の五つです。食物鞘は肉体のこと。生気鞘は肉体を機能させるエネルギーのことで呼吸や消化などをつかさどっています。心気鞘は思考・頭脳の領域とされ、頭脳で機能するマインドという実体のことだと私はとらえています。理智鞘は識別や信仰などの領域です。至福鞘は自らの本質である至福のことです。


Yatovaco nivartante. Aprapya manasa saha.

(マインド(頭脳)が理解することができず、言葉で記述することのできないブラフマンの至福)


という五つの鞘を説明するウパニシャッドの中の詩節が、心気鞘と理智鞘の解説の間にあります。私がインド人に聞いたところでは、人が自己探求を行う際に最も困難なのが、心気鞘から理智鞘へ進む段階だそうです。心気鞘は思考のレベルですから、いってみれば誰でも到達できるのです。しかし理智鞘と至福鞘は思考で到達できないレベルです。思考に頼りきっている現代人には、この領域の探求に不可能といっていいほどの困難を感じることがあるでしょう。


 理智鞘とは何でしょうか? 


Vijnanamyajnam tanute. Karmani tanute'pi ca.

(理智を所有するものは犠牲をなし、そしてさまざまな行為を遂行する)


 理智は英語ではintelligence(知性)と表現されるようです。しかし日本語で知性といえば単なる思考と混同しがちですので、私は知性とは呼ばず理智という言葉を用います。理性的な知恵とでもいいましょうか。上の詩節にあるように、理智はその機能としては犠牲や行為の遂行をつかさどるもののことです。思考はできても行動ができない人が結構な割合でいるように、単なる思考よりも行為をつかさどるものの方が上位にあるのでしょう。


 単なる思考による自己探求より上位にある理智鞘の段階での探求とは、行為を通じて識別を鍛えることのような気がします。あるいは犠牲=奉仕を行ううえで知性を働かせて適切な価値判断を行い、ふさわしく遂行すること。あるいは何かを行為する際には状況や関わる人たちを信じていないと基本的には何もできません。状況によっては行為の段階で信仰が試されることがあります。心気鞘の段階にとどまる疑い深いトーマスは、実践を伴う信仰の段階に達していなかったのです。
 まとめれば、行為や犠牲=奉仕を通じて識別、価値判断、信仰などを育む段階が理智鞘のレベルでの探求です。この段階は事物の本質を探る段階ともいえるのではないでしょうか。


 食物鞘=肉体を生気鞘=生気(呼吸や消化の力)が支えるように、理智鞘は至福の鞘によって支えられています。理智鞘における探求は思考が支えるのではなく、行為に自然に伴う至福が支えます。理智に従って生きていると、それほどの困難なく至福(自己の本質)の鞘に到達できるとされます。


 間違いを恐れる人がいます。無駄を恐れる人がいます。そういう人は理智鞘の段階へと足を進めることができません。理智鞘が行為を通じて識別や信仰を育む段階であるならば、多くの間違いや無駄、試行錯誤を通じてこそ、事物の本質がつかめてくるはずなのですが。
 私は数学を学んでいたのでわかりますが、一つの問題を何時間も何十時間も考え続けて、一つの見方のようなもの=ある種の補助線を見つけ、そして問題を解くための手がかりをつかみます。大切なのは法則です。しかしそれは莫大な無駄から得られたものです。数学でなくても、人が人生から何らかの原理原則を学ぶには、行為の無駄や間違いがどうしても欠かせないと私は思います。数学の問題を解くには、先達の知見を踏まえたうえで解きます。それと同じように、何か行為によって探求を行う際には、尊敬する人や師と仰ぐ人たちの手本を参考にするのがいいでしょう。そうであっても、自ら何かをつかみ取るには時間がかかるものです。


 自己探求における最大の難所である心気鞘から理智鞘への飛躍。ここを通り抜けたならば、人は大きな何かを得ることになります。あるいはこれこそが霊性への入り口なのかもしれません。