彫刻としての教育

 教育は彫刻に似ていると聞いたことがあります。しかしながら、この言葉を聞いたときの第一印象は、人を育てるのに「痛い」思いをさせなければならないのだろうか、ということ。あるいは教育者は人を自分の思い通りにしてもいいのだろうか、ということ。今から振り返るにこの二つはどちらも私の勘違いのようでした。

 教育が彫刻であるというとき、それは人の悪いところを削り取っていくということを意味します。しかし間違えると、日本の軍隊式の教育のように、スパルタというか厳罰とかそういう方向に向かってしまいます。もちろん何度も何度も過ちを繰り返すならば、情況によっては罰を与えることも必要でしょうが、悪いところを削り取っていくとはそういうことではありません。

 人体にはつぼというのがあります。つぼを刺激すれば、身体全体が活性化します。あるいは身体には凝り(こり)というのがあります。凝りをほぐせばやはり身体全体が健やかさを回復します。そのように、人の成長を妨げている、妨げているがゆえにそれを悪いところと表現しますが、その悪いところを取り除いてあげるわけです。そうすれば、人は自発的にというか自律的に成長していくだろうということです。

 生まれたばかりの状態では、人は良いところも悪いところも併せもっています。それは原木のような状態です。彫刻の名人は、原木を見ただけでその内に隠れている姿を見抜くことができ、あとはそれが現れるのを手助けするために不必要なところを削るといいます。

 優れた教育者の場合も、人の内に外へ向かって表現しようとする神性というか仏性を見、それが現れるのを妨げるものを慎重に取り除いていきます。その多くは心の癖であったり、ちょっとした習慣のようなものなのかもしれません。さらには人によっては成長することへの恐れを抱いているケースもあり、そのような恐れを感じる必要のない環境を与えることも大切なはずです。あるいは、悪い点を取り除いたとしても、どちらの方向へと成長したらいいか、その人自身が意識・自覚できない場合には、意識付けとしての価値教育も必要でしょう。ここでいう価値とは、成長の方向付けを与えるもののことで、価値教育は物語や詩や歌や集団活動、ゲームなどを通じてもたらすことができます。価値教育は悪い点を削り取るというよりも、塑像における肉付けに近いといえます。

 彫像はでっぱりとへこみから成り立っています。悪い点を慎重に見極めてそれを丁寧に削り取り、一方良いところをより伸ばしていくための価値教育を施し、内なる神性にしたがってその人が開花するのを許すこと。この両方から教育はなるのかもしれません。人の悪い点を取り除くにしろ、良いところを伸ばすにしろ、教師は相手の内に神性を見る必要があります。悪いところとは、神性があらわれるのを妨げているもののことであり、良いところとは、神性のあらわれが優勢であると見えるところのものであるからです。

 肉と骨と血からなる人間の体に神性という命を行き渡らせること、これが彫刻としての教育であると思うのです。


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 ヤフーブログから他のブログサービスに移行する時期が近づいています。移行先のブログサービスの中では、ヤフーブログにもしかしたら雰囲気が最も近いのがamebaブログなのかもしれません。第一印象でははてなブログにしようかと考えていましたが、現時点でははてなブログamebaブログをもう少し比較検討してみようかと考えているところです。どちらを選ぶにしろ、移行は7月に行うつもりでいます。