教育と変容

 「教育(エデュケア)は変革(transformation)が主体です」
 私の師の言葉です。エデュケアは情報(information)を与えるエデュケーションとは意味が異なるのですが、今は教育という言葉を使っておきます。

 人間の根本は変わることがないと思います。私は記憶のある3歳前後から今までずっと「私」であったし、その「私」が何か変わったかといえば、何も変わっていません。ならば変革(transformation)とは何でしょうか? 変革とはつまり変わること、変容することです。背が伸びて体重が増えること、あるいは年をとって体にしわがよることではないでしょう。

 いろいろな意味があると思います。一つは心(考え方)が変わること。一つは習慣が変わること。一つは外界においていた価値を内界におくようになること(さまざまな価値観の変容)。他にもあるかもしれません。

 今日は習慣が変わることについてかいてみます。
 「結果を出せない人というのは、とにかく無暗に未知のテクニックの大量収集に走るが自分を変化させることは拒む。結果を出す人というのは、何かを習ったらそれを試しにやってみて、自分の日常に取り入れて習慣化・定着させ、自分を変化させる。」(小田恵美子)
 この言葉は受験指南に関する言葉です。しかしながら、受験に限らず他のことに関しても同じことがいえます。

 この小田さんの言葉はかつての私に聞かせてあげたい言葉です。事態を打開するのにどうしたらいいかと迷い続ける時期があったのですが、さまざまな情報を収集するばかりで何かを試してみるということが少ない時期でした。こう着状態を抜け出せたのも、自分が正しいと思うことを何はともあれ実行に移してから。それでもしばらくは悩みは続きましたが、時と共に生活を覆っていた雲は去っていきました。

 何かを習ったら、そしてそれが本当に価値があると思えたならばそれを試しに生活に取り入れて習慣化してみる。そして生活を変化させてみる。これは本当に大切なことだと今の私はわかります。

 根本的な「私」は変わりはしないのですが、生活のありようが変われば次第に思考のありようも変わり、またそれが人生の受け取り方や価値観にまで影響が及ぶようになります。このようにして、決して急がずゆっくりでいいのですが、変容を重ねていって年をとったときに、人間はどういう存在になっているでしょうか? 

 「適応は帰依であり、適応は理解のあるときに行われる。」つまり変容を重ねた人生は、ある種の帰依(礼拝)の人生であったといえるのではないかと思うのです。

 帰依や礼拝に関心がなくとも、変化の大きい今の時代には望まなくても変容が求められます。簡単ではないですが、自分が変わることを恐れないようにしています。そしてこの変容を促すことが教育の大切な要素であることも覚えておきたいです。